加藤・熊倉編『外国語になった日本語の事典』(岩波書店、1999年)
外国語の辞典に掲載されているだけでなく、ある程度外国人のあいだでも認知されている日本語由来の言葉がどんな経路で日本からもちだされ定着していったのかを紹介する本で、まぁちょっとした読み物として面白い。そこからなにか日本文化論的なものが論じられているわけではないし、また最初からそういうつもりもないらしい。
アイヌ、生花、浮世絵、歌舞伎、カラオケ、着物、芸者、碁、交番、侍、柔道、醤油、寿司、禅、津波、忍者、能、俳句、腹切り、蒲団、盆栽、漫画、ラーメンなどが取り上げられている。
やはり最初にこれらの言葉の多くが日本からヨーロッパに紹介されたのは、安土桃山時代のイエスズ会の宣教師たちによってであることが多い。たとえば醤油などはそうやってヨーロッパに送られて、肉料理の味付けにエキゾチックだということで、あの絶対王政で有名なルイ14世も使っていたらしいということだから、相当に歴史がある。また能なんかも同じ時期に一種の音楽劇として紹介されていたようだし、着物もそのようだ。
ただ多くの言葉が実際にその物が普及するようになって初めて言葉として多くの人々に定着するようになったのは当然のことなので、やはり戦後、しかもここ数十年前からということが多い。
寿司やマンガのようにそのポピュラーさゆえに世界のあちこちに日本文化のトップランナーのごとくに広がっているものを見るのはなんとも愉快だ。フランスの書店でもマンガが平積みにされているし、あちこちに回転寿司や寿司レストランがある。日本のマンガのもつの型破りの描写力が外国人を魅了したのだろうし、寿司の場合はとうぜん健康志向に乗っかったのだ。また柔道は完全にインターナショナルなスポーツになっている。その一つ一つの手順が日本的とはいっても(礼をするとか、掛け声が「待て」とか「一本」とか日本語が使われているとしても)、レスリングとの境界線がだんだん微妙になりつつある。
だが歌舞伎の海外公演のチケットが即日完売になるとか、フランスのあちこちの町角にfutonと書いた看板が出ているなんていうのはいったいどういうことなのだろうかと理解に苦しむ。たんなるエキゾチスムでは説明できないものがある。そういったところになるとやはりなにかしら日本文化論を専門にした本に頼らざるを得ないのだろうか。
外国語の辞典に掲載されているだけでなく、ある程度外国人のあいだでも認知されている日本語由来の言葉がどんな経路で日本からもちだされ定着していったのかを紹介する本で、まぁちょっとした読み物として面白い。そこからなにか日本文化論的なものが論じられているわけではないし、また最初からそういうつもりもないらしい。
アイヌ、生花、浮世絵、歌舞伎、カラオケ、着物、芸者、碁、交番、侍、柔道、醤油、寿司、禅、津波、忍者、能、俳句、腹切り、蒲団、盆栽、漫画、ラーメンなどが取り上げられている。
やはり最初にこれらの言葉の多くが日本からヨーロッパに紹介されたのは、安土桃山時代のイエスズ会の宣教師たちによってであることが多い。たとえば醤油などはそうやってヨーロッパに送られて、肉料理の味付けにエキゾチックだということで、あの絶対王政で有名なルイ14世も使っていたらしいということだから、相当に歴史がある。また能なんかも同じ時期に一種の音楽劇として紹介されていたようだし、着物もそのようだ。
ただ多くの言葉が実際にその物が普及するようになって初めて言葉として多くの人々に定着するようになったのは当然のことなので、やはり戦後、しかもここ数十年前からということが多い。
寿司やマンガのようにそのポピュラーさゆえに世界のあちこちに日本文化のトップランナーのごとくに広がっているものを見るのはなんとも愉快だ。フランスの書店でもマンガが平積みにされているし、あちこちに回転寿司や寿司レストランがある。日本のマンガのもつの型破りの描写力が外国人を魅了したのだろうし、寿司の場合はとうぜん健康志向に乗っかったのだ。また柔道は完全にインターナショナルなスポーツになっている。その一つ一つの手順が日本的とはいっても(礼をするとか、掛け声が「待て」とか「一本」とか日本語が使われているとしても)、レスリングとの境界線がだんだん微妙になりつつある。
だが歌舞伎の海外公演のチケットが即日完売になるとか、フランスのあちこちの町角にfutonと書いた看板が出ているなんていうのはいったいどういうことなのだろうかと理解に苦しむ。たんなるエキゾチスムでは説明できないものがある。そういったところになるとやはりなにかしら日本文化論を専門にした本に頼らざるを得ないのだろうか。