法話メモ帳より(平成14.4.21『産経新聞』)以下、新聞から転載。
産経新聞に「母への感謝を綴った詩に涙」という見出しで、石川県七尾市の主婦、高崎千賀子さんの投稿が載った。(産経WEBより)
「美術館なんて趣味に合わないし、書道なんてつまらない」という女子高生の一団の言葉が、美術館でボランティア監視員をしていた私の耳に入り、思わず口にしました。
「あそこにお母さんのことを書いた書があるの。お願いだからあの作品だけは読んでいって」と。
女子高生たちは不承不承、私の指さした書を鑑賞しました。
すると一人がすすり泣き、そこにいた生徒全員が耐え切れずに、泣きだしたのです。
その書は、生まれたときから母に抱かれ背負われてきた脳性マヒの人が、世間の目を払いのけて育ててくださった、強いお母さんへの感謝の気持ちを綴った詩でした。
「今の健康と幸福を忘れていました」と女子高生たちは話し、引率の先生方の目もうるんでいました。(以上)
女子高生か涙した詩とは
読者から
4月11日付朝刊「ウエーブ産経(産経新聞フアンクラブ)」のページ(東京五面、大阪二十八面)で、石川県七尾市の主婦、高崎千賀子さん(69)の投稿に感激しました。
「母への感謝を綴った詩に涙」という見出しで、高崎さんが美術館で「お願いだからあの詩だけは読んでいって」と指さした書=写真=に女子高校生が、涙したーという話です。女子高校生は最初、ボランティア監視員の高崎さんに「美術館なんて趣味に合わないし、つまんない」と言っていたそうですね。
詩は脳性小児まひの子どもが、小児まひに偏見も持つ世間の目を払いのけて育ててくれた強い、お母さんに対する感謝の気持ちを表現してありました。いったいどんな詩だったのですか。
いま、涙するぐらい人の心を動かすものってすくないですよね。ぜひ教えてください。
主婦 維摩博子(40)兵庫県尼崎市
維摩さんのようなご意見はウエーブ産経事務局にも多く寄はせられ、あらためて取材しました。詩は、脳性まひだった奈良県の土谷康文さんの作品=別掲=です。彼は二十七年前、昭和五十年に亡くなりました。15歳でした。担任として養護学校の一年のときから見守った向野幾世さん(66)―元養護学校校長・現・奈良大講師―が、詩の誕生のいきさつを語ってくれました。
「障害を持つ人たちので、詩にメロディーをつけて伝える『わたぼうしコンサート』の第一回の前、やっちゃん(康文君)が『オレも詩を出したいねん』と言って作ったものなんです。身ぶりや声で、詩を作りたいという意欲が分かりました』
向野先生が言葉や文字をあげ、康文君が伝えたい言葉とピッタリすればイエスのウインク。違っていれば舌を出してノーのサインを送るーというやり方で、詩は時間をかけて作られました。
「私の思い浮かぶ、ありったけの言葉を『こうか?』『こうか?』とあげるんです。出だしは『ごめんな』も『ごめんなさい』も、ダメ。『ごめんなさいね』で、やっとイエスなんです。3.4カ月かかったでしょうか」
わたぼうしコンサート五十年四月下旬、奈良市で開かれました。康文君が車イスでステージに立ち、向野先生が詩を朗読しました。それから二ヵ月もたたずに、康文君は不慮の事故で亡くなりました。彼にとって最後の晴れ舞台だったそうです。向野先生はその後、康文君のことを本にまとめました。『お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい』というタイトルで、サンケイ出版(現・扶桑社)から出ましたが、いは絶版です。やっちゃんの詩は、まだまだ旅をします。道徳の教材に使われたこともあります。めぐりめぐって、書道家でもある石川県七尾市の願正寺住職、三藤観映さん(五五)の目にもとまりました。三藤さんはこれを書にして、石川県の美術展に出品。高崎さんが女子高生に見せたのは、この書だったのです。
(総合企画室 松原英夫)
土谷康文君の詩
ごめんなさいね お母さん
ごめんなさいね お母さん
僕が生まれて ごめんなさい
僕を背負う母さんの 細いうなじに僕は言う
僕さえ生まれなかったら
母さんの白髪もなかったろうね
大きくなったこの僕を背負って歩く悲しさも
「かたわな子だね」とふりかえる
冷たい視線に泣くことも 僕さえ生まれなかったら
ありがとう お母さん ありがとう お母さん
お母さんがいるかぎり 僕は生きていくのです
脳性マヒを生きていく
優しさこそが大切で 悲しさこそが美しい
そんな人の生き方を 教えてくれたお母さん
お母さん あなたがそこに いるかぎり
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