仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

やまと言葉の人間学②

2024年07月16日 | 日記
『やまと言葉の人間学』(2024/4/2・竹内整一著)からの、一部抜粋です。


「しあわせ(仕合わせ)とは、次のように、その由来が説明される言葉である。

しあはせ
(動詞)しあはす【為合はす・仕合はす】うまく合うようにする。(名詞)①めぐりあわせること。運。善悪いずれについてもいう。②特に、幸運。      (『岩波古語辞典』

「しあはせ」という言葉は、もともとは、「仕合はす」「為合はす」という動詞から来ている。つまり、みずからの努力によって「うまく合うようにする」という意味での使い方が基本である。「仕合はす」のは、われわれにとっていろいろ予測できない出来事・物事が起きてくるがゆえに、それらをあれこれつきあわせて、「いまく合うようにする」ということである。
 

「happy」「lcuky」と「しあわせ」
 英語の「happy」(偶然起こる、生じる)から出来た言葉であり、「happy亅(運、めぐりあわせ)から出来た言葉であって、同しようなニュアンスをもっている。しかし、「しあわせ」は、その言葉の根底に、「みずから」の「仕合わす」努力が潜んでいるというところに、その独白の語感がある。
 たとえば、「棚からぼた餅」という事態は、「happy亅「lcuky」であっても、「しあわせ」とは言わない。「しあわせ」という感じ方は、多少とも、そうした事態へと「仕合わせよう」とした努力ぬきには感じ取れないものであろう。
 文化人類学者の西江雅之さんに、「出会いは実力だ」という面白い言葉がある。
 誰か、あるいは何かと遭遇し、そしてうまく「合う」ようになるということーそれがいわゆる「出会い」ということであるがー、そうした「出会い」とは、当人の知性や感性のあり方ぬきには語れないということである。いい絵やいい音楽にふれて、それをいいこと感じるには、それ相応の努力や、またその蓄積である実力がなければそうは思えないものである。いい人と出会うには、自分の側にもそれ相応の実力がなければ、物理的に遭遇したとしても、「出会う」ことはできないということである。
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