仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

承認

2024年09月04日 | 浄土真宗とは?
本願寺発行の月刊「大乗」9月号が送られてきました。今年の4月~連載している「なるほど仏教ライフ」9月号の執筆原稿の転載です。


世の中は多様化の時代です。友人と会食しても、「私、ワイン」「おれ、生ビール」「おれ、焼酎」と、自己主張することに違和感がありません。この多様化、行政の側面から見ると、日本医師会生命倫理懇談会は1990年に患者は自分のことは自分で決める「説明と同意」(インフォームド・コンセント)を発表し、1997年に医療法が改正され「説明と同意」を行う義務が法律として明文化された当りから主流となったようです。同じ頃、学校教育においても、1992年に個性をいかす教育に改定されています。
価値観の多様化とは、人々の価値観がバラバラになっていくことなので、そこに不安が生じます。自由は多くなるが、承認を得るための行動基準が見えにくいので承認不安が強くなっていくのです。逆に、特定の価値観が強い社会では、自由は少ないが、社会の価値観に追従していればよいので、承認不安は起きにくい社会となります。
承認には、存在の承認、行為の承認があといわれています。存在の承認とは、あるがままの自分が認められるということです。行為の承認とは、条件的承認であり、ある条件をクリアーすれば認められる承認です。
仏道も、修行によって仏に認められる人となるという行為の承認の仏道と、どのような生き方の人であっても浄土真宗の阿弥陀さまによって肯定される肯定れるという存在の承認の仏道とがあるようです。
私は二十代の頃、築地本願寺に勤めていました。勤務して間もない頃のことです。読経の依頼があり、後堂から下陣へと進み出ました。すると中央の焼香台の前にホームレス風の印象を与える人が頭を垂れて座っていす。〝これでは他の参拝者の妨げになる〟と思った私は、その方を追い払うように声を掛けました。そして読経です。『無量寿経』の、阿弥陀さまがこの世に出現される前に、五十三の仏さまがこの世に現れ、私たちを豊かな世界へと導いてくださるという箇所を口に掛けていると、それら諸仏の名を通して仏さまの声が聞こえてきたような思いがしました。仏さまの声は、こう聞こえてきたのです。
「今そなたは、こうして念仏を称え、お経を読み、仏に頭(こうべ)を垂れている。その背後には、このような途方もない諸仏方の願いとはたらきがあってのこと。同じく、あのホームレス風の方も、仏さまの前に座るにあたっては、同じように途方もない諸仏方の願いとはたらきがあった。その諸仏方の願いとはたらきが今、あの方の身の上に、仏に頭を垂れるという姿で成就したのです」と。
私は、追い返した申し訳なさと、いま私の上に恵まれている仏縁の有難さが重なり、止めどなく涙が溢れてきました。何とか読経を終え、一言、お詫びをしたいと境内を探しましたが、その姿はすでにありませんでした。
後年、電車のなかでその時のことをふと思い出し、「あの方は、身なりや姿によって〝この方は篤信者〟〝この方は…〟と差別して止まない私の闇を破るためにこの世に現れた仏さまであったのかも知れない」と思ったとき、厳粛な気持ちに包まれたことがあります。
浄土真宗の念仏は、「南無阿弥陀仏」と念仏を称える背後に阿弥陀さまの願いとはたらきを仰いでいきます。「南無阿弥陀仏」と称えることが阿弥陀仏のはたらきであったと理解する根底には、〝私は念仏を称え、仏を礼拝することとは無縁な人格である〟という、自分自身の闇の深さへの気づきがあります。
この闇深き私を「仏、広大勝解のひととのたまへり。この人を分陀利華と名づく。」(浄土真宗聖典『註釈版』117頁)と讃えてくださっているのです。阿弥陀仏によって最高の教養をもった人とであると承認される。ここの念仏の恵みがあります。

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