『「感動ポルノ」と向き合う 障害者像にひそむ差別と排除』(岩波ブックレット・2022/1/7・好井裕明著)からの転載です。
障害を無効化し無意味化する穴―障害は完全に否定すべきものなのか
私はこうした感動をすべて否定するつもりはありません。そうではなく感動するあまり、コミックやドラマのなかに暗黙知として息づいている障害や障害者を了解する前提や了解の仕方に含まれているワナに、私たちが思わず知らず囚われてしまうことが問題だと感じるのです。
その一つは、障害を無効化し無意味化しようとする、すなわち障害とは完全に否定すべきもの、消し去ってしまうべきものだという前提です。
もちろん、ある能力を失わせた原因は障害そのものであり、能力が失われたことにいつまでも固執していても仕方がない。残っている他の能力を鍛え、新たな人生を創造すべきだというリハビリテーションの思想や治療は、障害者が生きていくうえで重要なものでしょう。
そうであるとしても、障害それ自体は完全に否定し消し去るべきものなのでしょうか。
第二章でも述べていますが、中途障害を負ったアスリートがパラアスリートヘと変容する過程でもっとも重要な契機が「障害を受容すること」です。アスリートは、最初障害を負った身体をそうでなかった身体と比べ、否定的に捉え、嘆き苦悩します。しかしいくら苦悩しても身体はもとどおりになることはありません。嘆きや苦悩に満ちたさまざまな体験をするなかで、アスリートは、障害によって変貌した自らの身体と向き合わざるを得なくなるのです。これが今の自分であり、まずは今の自分を認めることからしか新たな人生は拓けてこない。そのように前向きに考え始めるとき、アスリートは自分の身体や精神を変革する新たな創造の契機として障害を受け入れ、障害があるという新たな自分の存在を丸ごと承認していくのです。その結果、完全に否定したり消し去ったりするのではなく、障害を自分の一部として受容したうえで、新たな他の能力を鍛えていくのです。
また、障害者の自立生活運動において、ピア・カウンセリングという重要な実践があります。
それは先に自立生活している当事者がこれから自立しようとする障害者と向き合い語りあう営みです。この営みでも重要なポイントが、自分の障害を肯定的に認め直すということです。生まれつき障害をもつ当事者は、周囲から障害に対して否定的意味を投げかけられ続け、それを内面化してしまっている場合が多いのです。いわば否定性に呪縛されているのですが、あなたの障害はあなた自身を肯定する一部であって、決して否定的なものではない、と同輩の当事者が自らの体験をもとに語りかけ、相手を呪縛から解き放つ濃密なコミュニケシンヨンがそこにあるのです。
今一度確認したい重要な点。それは、当事者は障害を否定し消し去りたいものとして理解しているのではなく、自分の身体、自分の存在の一部として障害を肯定し承認し受容しているという事実です。
しかし、先にあげたコミックやドラマでは、障害を肯定し承認し受容する過程が丁寧に描かれることはありません。失望や苦悩から立ち上がる姿がことさら強調され、当事者が新たな能力を鍛える姿が価値づけられ、中心的に描かれているのです。
リハビリに頑張り、残存能力を鍛える障害者の姿だけに感動してしまうとすれば、あまりにも感動が与える光が眩しく、私たちのまなざしから無効化し克服すべき対象として障害を考えるのではなく、自らの身体や生の一部として受容しそれとともにどう生きていくのかを考え実践する障害者の姿が消えてしまう危うさがあるのです。
私たちのまなざしとは健常者中心社会にとって支配的な見方といえるのですが、そこで障害は否定すべきものであり少しでも早く克服すべきものだという見方が安定してしまうとすれば、障害自体が持つ意味や意義などを考える余裕がなくなり、私たちは障害を無効化することで当事者は障害を克服していくのだと思い込めるようになるのです。
こうした思い込みは障害をもつ当事者にとって確実に生きづらさを強いる権力行使となります。障害も多様であるように障害者もさまざまです。障害を克服したいと頑張る人もいれば、障害と折り合いをつけ自分なりの人生を生きようとする人もいます。多様な障害者の人生をある思い込みから勝手に価値づけ庠列づけるとすれば、それはまさに大きなお世話ではないでしょうか。(つづく)
障害を無効化し無意味化する穴―障害は完全に否定すべきものなのか
私はこうした感動をすべて否定するつもりはありません。そうではなく感動するあまり、コミックやドラマのなかに暗黙知として息づいている障害や障害者を了解する前提や了解の仕方に含まれているワナに、私たちが思わず知らず囚われてしまうことが問題だと感じるのです。
その一つは、障害を無効化し無意味化しようとする、すなわち障害とは完全に否定すべきもの、消し去ってしまうべきものだという前提です。
もちろん、ある能力を失わせた原因は障害そのものであり、能力が失われたことにいつまでも固執していても仕方がない。残っている他の能力を鍛え、新たな人生を創造すべきだというリハビリテーションの思想や治療は、障害者が生きていくうえで重要なものでしょう。
そうであるとしても、障害それ自体は完全に否定し消し去るべきものなのでしょうか。
第二章でも述べていますが、中途障害を負ったアスリートがパラアスリートヘと変容する過程でもっとも重要な契機が「障害を受容すること」です。アスリートは、最初障害を負った身体をそうでなかった身体と比べ、否定的に捉え、嘆き苦悩します。しかしいくら苦悩しても身体はもとどおりになることはありません。嘆きや苦悩に満ちたさまざまな体験をするなかで、アスリートは、障害によって変貌した自らの身体と向き合わざるを得なくなるのです。これが今の自分であり、まずは今の自分を認めることからしか新たな人生は拓けてこない。そのように前向きに考え始めるとき、アスリートは自分の身体や精神を変革する新たな創造の契機として障害を受け入れ、障害があるという新たな自分の存在を丸ごと承認していくのです。その結果、完全に否定したり消し去ったりするのではなく、障害を自分の一部として受容したうえで、新たな他の能力を鍛えていくのです。
また、障害者の自立生活運動において、ピア・カウンセリングという重要な実践があります。
それは先に自立生活している当事者がこれから自立しようとする障害者と向き合い語りあう営みです。この営みでも重要なポイントが、自分の障害を肯定的に認め直すということです。生まれつき障害をもつ当事者は、周囲から障害に対して否定的意味を投げかけられ続け、それを内面化してしまっている場合が多いのです。いわば否定性に呪縛されているのですが、あなたの障害はあなた自身を肯定する一部であって、決して否定的なものではない、と同輩の当事者が自らの体験をもとに語りかけ、相手を呪縛から解き放つ濃密なコミュニケシンヨンがそこにあるのです。
今一度確認したい重要な点。それは、当事者は障害を否定し消し去りたいものとして理解しているのではなく、自分の身体、自分の存在の一部として障害を肯定し承認し受容しているという事実です。
しかし、先にあげたコミックやドラマでは、障害を肯定し承認し受容する過程が丁寧に描かれることはありません。失望や苦悩から立ち上がる姿がことさら強調され、当事者が新たな能力を鍛える姿が価値づけられ、中心的に描かれているのです。
リハビリに頑張り、残存能力を鍛える障害者の姿だけに感動してしまうとすれば、あまりにも感動が与える光が眩しく、私たちのまなざしから無効化し克服すべき対象として障害を考えるのではなく、自らの身体や生の一部として受容しそれとともにどう生きていくのかを考え実践する障害者の姿が消えてしまう危うさがあるのです。
私たちのまなざしとは健常者中心社会にとって支配的な見方といえるのですが、そこで障害は否定すべきものであり少しでも早く克服すべきものだという見方が安定してしまうとすれば、障害自体が持つ意味や意義などを考える余裕がなくなり、私たちは障害を無効化することで当事者は障害を克服していくのだと思い込めるようになるのです。
こうした思い込みは障害をもつ当事者にとって確実に生きづらさを強いる権力行使となります。障害も多様であるように障害者もさまざまです。障害を克服したいと頑張る人もいれば、障害と折り合いをつけ自分なりの人生を生きようとする人もいます。多様な障害者の人生をある思い込みから勝手に価値づけ庠列づけるとすれば、それはまさに大きなお世話ではないでしょうか。(つづく)
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