『産経新聞』(2022.5.16)「正論」に防衛大学の神谷万丈教授が『ウクライナ人の「決意に学べ』を執筆されていました。後半部分を転載します。
国際社会は中央政府を欠いたアナキーの状況にある。国内社会では強者による不当な「力による現状変更」は、政府により元に戻されることが期待できる。だが国際社会ではそうではない。強者が力で変更した現状は、特にその力の行使が限定的で人的犠牲が少なかった場合には、国際社会から追認されてしまうことが多い。
ウクライナでいえば、今回の戦争が始まる前のクリミアの状況はそれに近いものだった。そして、もしウクライナ人が独立よりも命が助かることを優先してロシアに降参していたら、傀儡政権が樹立され、その状況はしぶしぶではあっても世界から事実上受け入れられてしまっていたことだろう。
それを阻んだのがウクライナ人の国を守る決意だった。(中略)
今回の戦争はロシアからみると 「プーチンの戦争」だ。ロシア人がこの戦争を望んだわけではない。プーチンの命令で始まった戦争に協力させられているのだ。
日本人に問われていること
だがウクライナ人は「セレンスキーの戦争」を戦っているわけではない。彼らは、「ウクライナをウクライナたらしめ、ウクライナ人をウクライナ人たらしめている様々な制度、慣習、価値観、理念の束」を守るために、自らの意思で立ち上がった。「降伏するとはロシアの人々となること」(ウクライナの国民的作家、クルコフ氏)を意味すると考え、それを拒否するために命さえ懸ける決意を固めているのだ。ウクライナが大国ロシアの暴力に屈さずにいるのは、この決意の強さがあったればこそだ。中央政府を欠いた国際社会では、自らの身は究極的には自らの手で守らなければならない。ウクライナ人の決意をみて、米欧日をはじめとする世界の多くの国も、ロシアと対立してでもウクライナを支援する決意を強めている。
アナーキーの状況下で自らの身を自らの手で守るためには、そのための力が必要だ。だが見過ごしてはならないのは、力とともに、侵略に立ち向かう決意もまた求められるということだ。
今回の事態をみて日本人の安全保障意識は急速に現実的になってきているようだ。防衛力整備について、タブーなく議論する機運も高まっており好ましい。だが日本人には国を守る決意もまた問われている。ただ勇ましいことを言えばよいというものではない。日本人は、今のウクライナ人の振る舞いをみて、国を守るための決意とは何であるのかについて、根本的に考えてみるべきだろう。
(かみや またけ)
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