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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

科学の知・神話の知

2020年03月08日 | 浄土真宗とは?
千葉県の図書館はすべて16日まで休館です。休館前に借りてきた『浄土思想入門 古代インドから現代日本まで 』(角川選書・2018/10/19・平岡 聡著) からの転載です。神話の持つ重要性についての示唆です。


現代社会を生き抜くためにー物語の必要性
途方もない事故が起こった。なぜこんな事故が起こったのか。そのときに自然科学的な説明は非常に簡単です。なぜ私の恋人が死んだのかというときに、自然科学は完全に説明ができます。「あれは頭蓋骨の損傷ですね」とかなんとかいって、それで終わりになる。しかしその人はそんなことではなくて、私の恋人がなぜ私の目の前で死んだのか、それを聞きたいのです。それに対しては物語をつくるより仕方がない。つまり腹におさまるようにどう物語るか。

 このように、自然科学の知(科学の知)は死の原因を説明するだけで、残された者の苦を脱することはない。一方、物語の知(神話の知)は苦を腹に納める力、生きる希望を与える力を持つ。科学の知加我々の生活を豊かにし、人間にとって有意義であることは確かだが、人間に認識できるものしか認めず、神話の知を否定する。科学の知万能主義は明らかに行き過ぎだ。科学の知が神話の知(物語の力)を駆逐すれば、人間は「精神的窒息状態」に陥ると私は考えている。では、神話の知(物語の力)がどのような力を持っているかを、実際の事例から紹介しよう。

神話の知の力
 さきほど紹介した和歌山毒物カレー事件で最愛の息子を失った母の有加さんが創作した物語は秀逸である。彼女は『彼岸花』という本を出版し、死者(我が子)との再会の物語を創作している。

全文を紹介するには長いので要約し、ポイントになる部分のみを引用する。
 自分に残された時問を、流した涙の分だけ捨てることができる湖があった。息子を失った母はそこに涙を捨てに行く。寿命を短くし、早く死んで息子に会おうと考えたからだ。毎日毎日、 母はそこに涙を捨てに行ったが、一向に寿命は縮まらない。不審に思った母は神にその理由を尋ねると、神はこう答えた。
「ここに来るのは、悲しい時間を持て余した人達ばかりだ。だが、あなたがここにやってくると同時に、ひとりの子供が来るようになった。年のころは、十歳くらいの……男の子だ。時間を捨てにくるんじゃあないんだ……。一生懸命、拾っていくんだよ……あなたが捨てた時間をね……。」(林1999)
これを聞いた母は自分の非を覚り、生きる希望を見出すという話である。私はこの童話を何度読み返しても、必ずこの箇所で涙を抑えることができなくなる。愛しい息子を失った母の心の傷は簡単には癒えないが、この物語は彼女に生きる希望を与える力を持っている。そして後書きには「今、目の前に息子が現れないのは、残酷な事実です。しかし、いつの日かまたきっと、親子として生まれ変わってくることを信じています」と記されている。(以上)

そして著者は本の最後を次のように結んでいます。(以下転載)
「人間中心主義ノエゴ中心主義」を脱するには、人間を超えた視点(阿弥陀仏)から人間を相対化する物語が必要だ。個人の特殊な物語はともかくより普遍的な物語は誰かが理法の名を翻って語らなければならない。世界は今、時機相応に理法を騙=語れる“誰か”を求めているのではないか。浄上教が浄上教であるために、そして仏教が仏教であるために。(以上)


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