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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

「かわいい」と「かわいそう」の近さ

2024年06月23日 | 日記
『いつもの言葉を哲学する』(2021/12/13・古田徹也著)から。以下転載。


「かわいい」と「かわいそう」の近さ

 それから、いま振り返ると、バス停で幼い娘に向けられた「かわいそう」という言葉と、私や連れ合いがいつも娘に向ける「かわいい」という言葉、その両者の近さが興味深くも思えてくる。

「かわゆい」が変化した語である「かわいい」は、元々は「顔映ゆし」、つまり、顔が赤らむ、見るに忍びない、といった意味の言葉に由来し、中世以前は、小さい者や弱い者を不憫に思う心境を表し、言葉として用いられていた。それが中世後半に至ると、同じく小さい者や弱い者に対する情愛の念や愛らしいと思う気持ちを示すようになり、次第にこの種の意味合いが優勢になっていく。そして、近世の後半以降は「不憫」の意味が次第に消失し、専ら「愛らしい」という類いの意味で用いられるようになった(日本国語大辞典第二版)。「かわいい」は、いまや世界各国で通用する言葉になったが、そうした国際語としての「カワイイ」も、小さなものの愛らしさのみを表す言葉として流通していると言えるだろう。
 ただ、「かわいい」がいまは表立った仕方では「かわいそう」とか「不憫」といった意味で用いられることはないとしても、やはり、「かわいい」と「かわいそう」は深いところで結びついているように思われる。つまり、私たちが子どもを「かわいい」と思うとき、そこには、子どもをたんに愛らしく感じるだけではなく、子どもを憐れみ、胸を痛め、後ろめたく感じる、苦い感覚が入り交じっているのではないだろうか。(つづく)
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