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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

「労働」を罰か

2012年08月12日 | 苦しみは成長のとびら
世界中では、「労働」を罰とする考えが多いという。そうくると、仏教では、その行為を通して、人生が深められていく考えるといった正論を吐きたくなります。


「労働」を罰とする考えでもいいかなと、『日本一 心を揺るがす新聞の社説』(ごま書房新社刊)を読んでいて思いました。要はその罰の中に何を見ていくかということでしょう。

『日本一 心を揺るがす新聞の社説』の最初の一章に、次のような話が出ていました。(以下転載)

食肉加工センターの坂本さんの職場では毎日たくさんの牛が殺され、その肉が市場に卸されている。牛を殺すとき、牛と目が合う。そのたびに坂本さんは、「いつかこの仕事をやめよう」と思っていた。
ある日の夕方、牛を乗せた軽トラックがセンターにやってきた。しかし、いつまで経っても荷台から牛が降りてこない。坂本さんは不思議に思って覗いてみると、10歳くらいの女の子が、牛のお腹をさすりながら何か話し掛けている。その声が聞こえてきた。
「みいちゃん、ごめんねえ。みいちゃん、ごめんねえ……」坂本さんは思った、「見なきゃよかった」
女の子のおじいちゃんが坂本さんに頭を下げた。
「みいちゃんは、この子と一緒に育てました。だけん、ずっとうちに置いとくつもりでした。ばってん、みいちゃんは売らんと、お正月が来んとです。明日はよろしくお願いします…」
「もうできん。もうこの仕事はやめよう」と思った坂本さん、明日の仕事を休むことにした。
 家に帰ってから、そのことを小学生の息子のしのぶ君に話した。しのぶ君はじっと聞いていた。
 一緒にお風呂に入ったとき、しのぶ君は父親に言った。「やっぱりお父さんがしてやっ
てよ。心の無か人がしたら牛が苦しむけん」しかし坂本さんは休むと決めていた。
 翌日、学校に行く前に、しのぶ君はもう一度言った。「お父さん、今日は行かなんよ」(行かないといけないよ)」
坂本さんの心が揺れた。そしてしぶしぶ仕事場へと車を走らせた。
 牛舎に入った。坂本さんを見ると、他の牛と同じようにみいちゃんも角を下げて威嚇するポーズをとった。
 「みいちゃん、ごめんよう。みいちゃんが肉にならんとみんなが困るけん。ごめんよう」と言うと、みいちゃんは坂本さんに首をこすリ付けてきた。
殺すとき、動いて急所をはずすと牛は苦しむ。坂本さんが「じっとしとけよ、じっとしとけよ」と言うと、みいちゃんは動かなくなった。次の瞬間、みいちゃんの目から大きな涙がこぼれ落ちた。牛の涙を坂本さんは初めて見た。(以下省略)


読んでいて、尊いと思った。牛をこれから殺すのに、何が尊いのだろうと、思い返すと、仏教の「代受苦」(菩薩が衆生に代わって地獄の苦を受けること)という言葉が浮かんできました。

牛の肉を食べる人は、本来、それぞれの人が牛を殺して食べるべきなのだろう。それなのに、仕事とはいえ、坂本さんは、人々の苦しみを一心に背負って、牛肉を口にする人それぞれの人がしなければならない牛を殺すという仕事に従事されている。そこに尊さを感じたのだと思います。

仕事というのは、一面、代受苦的な要素があるようです。「労働」を罰であっても、それが代受苦に連なっていると思うと、罰のままと尊いと思われます。
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