東京の江東区ある社会福祉法人「おそか会」の評議員をしている。昨日(22.10.25)は、その評議員会で議題の1つに「あそか会創立80周年記念式典」があった。
あそか病院の総裁は現ご門主夫人である大谷範子さまです。設立の原点は九条武子さんで(本願寺第二十二代宗主・明如上人の次女・歌人としても知られている)、随想と詩を納めた「無優華」(むゆうげ)は、当時、ベストセラーとなり、その印税で、あそか病院(江東区)が建てられたと聞いています。だから本願寺系の法人です。
九条武子さんは関東震災後、生活困窮者への無料診療所、被災者の救援など、社会福祉に献身され、その延長で建立されたものです。
評議員会が終わって築地での電話相談の合間にネットで「九条武子」で閲覧していると面白い情報が載っていました。
「山中峯太郎 1933(昭和8)年 写真小説「九条武子と不良少女」(入江たか子共著)主婦之友7月号」
の表記です。私の思いは“あてっれ小説だったの”です。話しはお説教で昔から耳にしていたし、10年くらい前、中外日報という業界新聞が、社説でそのエピソードの詳細を掲載されていた。
山中峯太郎は「九条武子夫人」という作品もあるので、その中に掲載されているのかもしれません。
国会図書館には、該当する主婦之友7月号はなかったですが、「九条武子夫人」はありました。この閲覧は図書館のみ。
下記の話が実話か小説か興味のあるところです。
参考までに平成12年の当寺の寺報から転載します。
昭和元年、東京真宗婦人会の会長でもあった武子婦人は、婦人会の事業として千駄ケ谷原宿に、震災孤児の少女や頼る者のない少女を養育する「六華園」という名の仮舎を設けた。翌年には、荻窪駅の近くで本格的な園を開設している。昭和元年は父、明如上人の二十五回忌の前の年であり、六華とは父の雅号であることからすると、父の忌年事業という思いもあったのであろう。以下は、その施設の事務を担当された森川義照氏が残された武子夫人にまつわるエピソードです。
六華園にA子という十四歳の少女が収容されていた。家庭環境が悪かったのか万引きをする癖がついて直らない。何度か警察に補導されたが、しばらくするとまた罪を犯す。補導も十四回目に及んだ。その十四回目の時のことです。
ある日電話が鳴り、受けると警察からです。「A子がまたやりました。本願寺さんもおうようで監督が不十分です。十四回目ですぞ。これでは警察も大変ですからもう返しません。警察で処置をしますから、すぐ手続きをとってもらいたい」と強硬な申し入れであったそうです。
職員会議を開き「あの子には困っている。どうにも手が付けられない」「とても厚生の見込みはない」「可愛想だが警察で処置してもらったほうがA子のためだ」となった。
「可愛想だが力およばず」と、早速森川さんは、書類を整えて園長である武子夫人の部屋を訪ねた。窓辺で読書をしておられた夫人に経過を説明し許可を求める。説明が終わっても、うつむかれたまま、何もおっしやらない。説明が十分ではなかったのかと思い、もう1度詳しく申し上げたそうです。それでもご返事がない。お顔を拝すると、夫人の目から涙があふれ、聞かれた本の上に落ちている。
ややしばらくあって、ようやく涙をおさえた夫人がおっしやった。
「森川さん。A子は何回しくじったというのですか」「今回で十四回目です」「森川さん。A子は十四回目だと言いますが、思うてみると、私は何回しくじってきたことでしょうか」
森川さんは警察に走り、事情を話して、もう一度だけということで、A子を連れて帰ってきた。いつもは途中で厳しく訓戒するのだが、この日は言えない。A子を部屋に入れて「先生は、今日は何も言わない。いいや言えないのだが、一言だけ聞いてもらいたい。今日、おまえは警察にいて何も知らなかっただろうが、先生方はみな警察に渡すといったのに、園長先生が、どうしても見放せないと言われる。これだけは思うてみてくれヨ」と静かに言い聞かせた。
すると今までどんなに教え諭しても涙一つ見せなかったA子が「ご心配をおかけしました」と声をあげて泣きくづれ、謝ったと言います。
*九条武子の歌
見ずや君 あすは散りなむ 花だにも
力の限り ひと時を咲く
捨てられて なほ咲く花の あわれさに
又とりあげて 水あたへけり
美しき 裸形(らぎょう)の身にも 心にも
幾重かさねし いつわり(偽)の衣(きぬ)
あそか病院の総裁は現ご門主夫人である大谷範子さまです。設立の原点は九条武子さんで(本願寺第二十二代宗主・明如上人の次女・歌人としても知られている)、随想と詩を納めた「無優華」(むゆうげ)は、当時、ベストセラーとなり、その印税で、あそか病院(江東区)が建てられたと聞いています。だから本願寺系の法人です。
九条武子さんは関東震災後、生活困窮者への無料診療所、被災者の救援など、社会福祉に献身され、その延長で建立されたものです。
評議員会が終わって築地での電話相談の合間にネットで「九条武子」で閲覧していると面白い情報が載っていました。
「山中峯太郎 1933(昭和8)年 写真小説「九条武子と不良少女」(入江たか子共著)主婦之友7月号」
の表記です。私の思いは“あてっれ小説だったの”です。話しはお説教で昔から耳にしていたし、10年くらい前、中外日報という業界新聞が、社説でそのエピソードの詳細を掲載されていた。
山中峯太郎は「九条武子夫人」という作品もあるので、その中に掲載されているのかもしれません。
国会図書館には、該当する主婦之友7月号はなかったですが、「九条武子夫人」はありました。この閲覧は図書館のみ。
下記の話が実話か小説か興味のあるところです。
参考までに平成12年の当寺の寺報から転載します。
昭和元年、東京真宗婦人会の会長でもあった武子婦人は、婦人会の事業として千駄ケ谷原宿に、震災孤児の少女や頼る者のない少女を養育する「六華園」という名の仮舎を設けた。翌年には、荻窪駅の近くで本格的な園を開設している。昭和元年は父、明如上人の二十五回忌の前の年であり、六華とは父の雅号であることからすると、父の忌年事業という思いもあったのであろう。以下は、その施設の事務を担当された森川義照氏が残された武子夫人にまつわるエピソードです。
六華園にA子という十四歳の少女が収容されていた。家庭環境が悪かったのか万引きをする癖がついて直らない。何度か警察に補導されたが、しばらくするとまた罪を犯す。補導も十四回目に及んだ。その十四回目の時のことです。
ある日電話が鳴り、受けると警察からです。「A子がまたやりました。本願寺さんもおうようで監督が不十分です。十四回目ですぞ。これでは警察も大変ですからもう返しません。警察で処置をしますから、すぐ手続きをとってもらいたい」と強硬な申し入れであったそうです。
職員会議を開き「あの子には困っている。どうにも手が付けられない」「とても厚生の見込みはない」「可愛想だが警察で処置してもらったほうがA子のためだ」となった。
「可愛想だが力およばず」と、早速森川さんは、書類を整えて園長である武子夫人の部屋を訪ねた。窓辺で読書をしておられた夫人に経過を説明し許可を求める。説明が終わっても、うつむかれたまま、何もおっしやらない。説明が十分ではなかったのかと思い、もう1度詳しく申し上げたそうです。それでもご返事がない。お顔を拝すると、夫人の目から涙があふれ、聞かれた本の上に落ちている。
ややしばらくあって、ようやく涙をおさえた夫人がおっしやった。
「森川さん。A子は何回しくじったというのですか」「今回で十四回目です」「森川さん。A子は十四回目だと言いますが、思うてみると、私は何回しくじってきたことでしょうか」
森川さんは警察に走り、事情を話して、もう一度だけということで、A子を連れて帰ってきた。いつもは途中で厳しく訓戒するのだが、この日は言えない。A子を部屋に入れて「先生は、今日は何も言わない。いいや言えないのだが、一言だけ聞いてもらいたい。今日、おまえは警察にいて何も知らなかっただろうが、先生方はみな警察に渡すといったのに、園長先生が、どうしても見放せないと言われる。これだけは思うてみてくれヨ」と静かに言い聞かせた。
すると今までどんなに教え諭しても涙一つ見せなかったA子が「ご心配をおかけしました」と声をあげて泣きくづれ、謝ったと言います。
*九条武子の歌
見ずや君 あすは散りなむ 花だにも
力の限り ひと時を咲く
捨てられて なほ咲く花の あわれさに
又とりあげて 水あたへけり
美しき 裸形(らぎょう)の身にも 心にも
幾重かさねし いつわり(偽)の衣(きぬ)
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