『親鸞に秘められた古寺・生涯の謎』(山折哲雄編者)からの転載です。
日野範綱は親鸞の父有範の兄、つまり親鸞の伯父であった。後白河法皇の近臣であったので、平清盛が後白河を制して覇権を握っていた時期は苫渋をなめたとみられるが、治承五年閏二月、つまりちょうど親鸞が出家した「春」(旧暦で1~3月)に含まれる時期に清盛が没し、後白河の院政が再開されている。この時期の範綱の眼前には久々に光がさしていたのではないだろうか。
その範綱が親鸞の養父となっていたのはなぜか。かつては、「親鸞の実父有範が早世したため、範綱が父親代わりとなっていたのだ」と考えられていて、『親鸞正明伝』は有範だけでなく親鸞の母親も早世したと記している。
しかし、近年ではこの見方は支持されていない。昭和戦後に、親鸞の弟で、僧侶になっていた兼有が有範の中陰の供養を行ったことを証する文書が西本願寺で見つかり、兼有が僧侶としてそれなりのキャリアを積む年齢になるまで有範が存命していたことが確実となったからだ。兼有の生年は不詳だが、親鸞九歳時はまだ幼年であったはずであり、だとすれば、少なくともこの時点では有範が亡くなっていたはずはない。
にもかかわらず、なぜ範綱が親鸞の養父となり、出家の付き添いを務めたのか。
「少しでも官位の高い人物に引率されたほうが、僧侶としての出世が見込めるから」という見方もできるが、実父有範の影の薄さは、親鸞出家の背景に暗い事情があったことを連想させてならない。(つづく)
「兼有が有範の中陰の供養を行ったことを証する文書が西本願寺で見つかり、兼有が僧侶としてそれなりのキャリアを積む年齢になるまで有範が存命していた」とさらっと書いていますか、下記のことです。
覚如上人の長子・存覚上人が筆写した『無量寿経』の奥書に、「御室戸大進入道有範の中陰にあたり、兼有律師(親鸞聖人の弟)が加点し、親鸞聖人がその外題を書いた『無量寿経』のあったことが記されています。親鸞聖人がまだ比叡山に折る頃、20前後のことです。「御室戸大進入道有範」とあるから皇太后宮大進を退任ののち京都の南、三室戸の地に隠棲出家していたようです。この地は、聖人の弟・兼有も三室戸と号したこと、この地には覚如も一時住しています。(西原祐治ブログより)