『思考停止という病理: もはや「お任せ」の姿勢は通用しない』(平凡社新書・023/5/17・榎本博明著)からの転載です。
相手の期待を裏切りたくない、という心理
私たち日本は騙されやすかったり、交渉において相手のぺースに巻き込まれやすかったりするのは、前項で指摘したように性善説にたち、人を疑ってはいけない、相手を信じるべきである、と心に刻まれてしることに加えて、相手の期待を裏切りたくななという心理か働いているためでもある。 そうした心理的特徴は、日常のコミュニケーシションの様式のみならず、たとえば動機づけにもあらわれている。
教育心理学者ハミルトンたちは、日本とアメリカの小学校5年生を対象に、成績や勉強に対する意識についての比較研究を行っている。そのなかで、とくに日米で違いがみられたのが、勉強をしたり、良し成績を取ろうとしたりする理由であった。
アメリカの子どもには、自分の知識が増えるなど、自分のためという反応が多かった。それに対して、日本の子どもには、「お母さんが喜ぶ」など、両親や先生を喜ばすため、あるいは悲しませないためという反応が目立った。
教育心理学者臼井博は、このハミルトンたちの子どもの達成動機に関する知見は、デヴオスによる日本の大人の達成動機についての知見と一致するという。達成動機とは、ものごとを成し遂げたいという心の動きを指す。
デヴォスは、日本人が何かを成し遂げたいと思って頑張るとき、その心の深層には母子の絆があると指摘する。
日本の母親は、子どものために自分自身の利己的な欲求を抑える。いわば、子どものためなら自己犠牲を払う。このような母親のマゾヒスティックな行動を見ている子どもに、母親が自分のために犠牲になっていることに罪悪感をもつ。そのため母親を楽にさせてあげたいと恣って頑張って勉強したり、仕事に精を出したりする。
デヴォスは、このような罪悪感に基づく達成への義務感のことをモラルマゾヒズムと呼んだ。
日本人は、「頑張らないと申し訳ない」といった気持ちに駆り立てられて頑張るのだというわけである。
近頃は、政府がやたらと自己愛をくすぐり、自分の活躍のたにめだにけに生きるのがよいといったマッセージを流すため、自己犠牲的に子どもに尽くすという母親像が今の時代にどれほどあてはまるのかはわからない。だが、今ときの学生たちと話しても、サボると親に悪いといっか言葉をよく囗にする。
モラルマゾヒズムは、相手が母親とは限ららないが、現代でも日本人の心の深層に刻まれているのではないだううか。
実際、頑張る理由として、私たち日本人は、自分にとって大切な人物を喜ばせたいとか、
悲しませたくないとしった人間関係的な要因をあげることが多い。頑張れないときや成果を上げられないときは、そういう人に対して「申し訳ない」という思いに駆られる。
スポーツ選手が勝利インタビューなどで、お世話になっている監督やコーチのために頑張った、恩返しができたというようなコメントをする光景をしばしば見かける。そこがいかにも日本的と言える。
私たちは、何事に関しても、絶えず相手の期待を意識して、それを裏切らないように行動しようとするようなとこうかあるのである。
そのため、人を疑わないだけでなく、嫌と言いにくいということにたりがちである。たとえば、取引相手から、向こうに都合のよい条件を求められたときなど、海外の人なら即座に「それは無理」と言えるが、日本人の場合は柏手の期待を裏切りたくないという気持ちが働くため、即座に拒否するということができない。それで不利な契約を結んでしまったりする。人の気持ちにとらわれるあまり、条件面についてじっくり検討する余裕を失ってしまうのである。
日本社会に「忖度」がはびこるのも、相手の期待を裏切りたくないという思いが強いからと言える。
相手の意向を配慮しつつ行動するのは、私たち日本人の基本的な行動原理となっている。
自分の意向に従って動き、相手を説得するのが基木的な行動原理となってしる欧米人には信じかたいことだろうが、私たち日本人にとっては相手が何を期待しているかが重要なのだ。このことも良かにつけ悪しきにつけ思考停止に陥らせる要因と言えるだろう。(以上)