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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

なぜあなたは自分の「偏見」に気づけないのか④

2023年03月11日 | 日記

『なぜあなたは自分の「偏見」に気づけないのか:逃れられないバイアスとの「共存」のために』(2021/10/15・ハワード・J・ロス)からの転載です。

 

それから2500年のあいだ、私たちは理性を崇拝してきた。私たちが口癖のように繰り返す言葉を見れば、この理性という言葉がどれほど私たちの頭に根づいているかがよくわかる。「ちゃんと理性で考えてるか?・感情的になりすぎてないか?」

 だが、蓋を開けてみれば、私たちは「理性的どころか、むしろ感情的」にものごとをとしえていたわけだが、その感情が欠けていても、ものもとを明確に考える本来の能力が損なわれてしまうようだ。これについては、著名な神経科学者のアントニオ・ダマシオが、『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳」で論じている。

 この本の中でダマシオは、「エリオット」という患者との出会いを描いている。エリオットは脳の腫瘍を切除し、それによって前頭前野腹内側部が損傷を受けた。前頭前野腹内側部は、前頭葉の一部で、危険や恐怖の感情を処理している。この部位は感情的な反応を制御したり意思決定を行ったりすることにおいて重要な役割を演じている。かつては仕事も家庭も充実した生活を送っていたエリオットは、苦しんでいた。知性は以前と変わらず、かなりの高さを示していた(IQは97パーセンクイルに位置していた)にもかかわらず、仕事も結婚生活も、彼を取り巻くあらゆるものがうまくいかなくなっていた。感情に流されなければ、かなり「理性的」な決断ができると誰もが考えるだろう。だが、エリオットには何の貪欲も感じられなかった。ダマシオは、このように書いている。「彼はつねに自制的だった。自分自身が主人公でありながら、彼自身の苦悩はどこにもなかった。彼との何時間もの会話の中で、私はかすかな情動も見いだしすことはなかった。悲しみもなかった。しびれを切らすこともなかった」

 ダマシオは、エリオットが自分の感情にアクセスできない状態にあって、ごく単純な意思決定できないと知った。小さな決断をひとつするにも、永遠に思えるほどの時聞がかかった。ものを書くのに何を使うか、会う約束をするかしないか、昼食はどこで取るかを決めるだけでも、かなりの時間を要した。ダマシオは、次のように締めくくっている。[エリオットは正常な知性をもっていながら適切に判断することができない、とくにそれが個人的あるいは社会的な問題と関わっているとき決断できない人物であることがはっきりした。(田中三彦訳) 

ダマシオはエリオットを、自分自身の人生に「無関係な傍観者」と描写した。脳の感情をつかさざる部位が損傷を受けて以来、彼は事実上、何も決められなくなってしまったのである。

 このように、私たちは生来の矛盾とともに生きている。ひとつは、私たちが行っているとされる理性的な意思決定である。もうひとつは無意識の働きと感情的な反応がおよぼす実際の影響だ。この無意識の働きと感情的な反応は、意識下にとどまり、自覚されず、見過ごされがちだ。

私たちは自分を良い人間だと思う傾向にあるが、その反面、このような感情的衝動も備っている。この衝動は、自分が見て判断していると考えるものと、実際に起きていることとのあいだにとてつもない不協和音をつくりだす。フロイト派の言葉で「イド」つまり本能的衝動は、反応と感情を同時に生じさせる。そこで、内なる支配者であり管理者でもある”超自我”が、その衝動を無意識の奥底に沈めて制御しようとする。たとえば、私たちには「偏見などあるはずがない」ので、たとえそれを否定する証拠に出くわしても、自分には偏見などないと思いつづけるのである。

 実際に、ある研究では、自尊心の高い理性的な人ほど、自身のバイアスによる盲点ができやすいという、驚くべき矛盾も明らかにされている。それを発見したのはウォータールー大学の心理学者のフィリップ・ドジソンとジョアン・ウッドで、彼らは自尊心の高い人が、自尊心の低い人に比べて、自身の弱点にあまり反応しないことを知った。そのため、自尊心の高い人は自分への否定的な考えや見解が内面に根づきにくいと思われる。さらに、理性的な人は自らのバイアスを合理的に解釈して正当化する傾向があるという。私たちは自分の見解を論理的に考えれば考えるほど、それが真実だと思い込むのである。(以上)

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