仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

雑毒の善

2021年04月19日 | 浄土真宗とは?

法話メモ帳より

私の近くのパン屋の奥さんのお話。朝、店を開けたばかりの時刻に、ときどきベレー帽をかぶった老人が食パンを買いにくる。その時には、きまってパンの切れはしで古くなったのをわけてほしいという。服装も質素なところへ、そのようなパンの買い方をするので、よほど生活が苦しい独居老人だと思い、ある日、サービスのつもりで老人の持って帰る食パンにたっぷり、バターをぬっておいてあげた。そうとも気づかないで、いつもと同じように老人はパンを買っていきました。奥さんは、あの老人はきっと今ごろよろこんでパンを食べてくれているだろうと想像し、心がウキウキしていました。善いことをするのは何といい気持ちだろう、きっとこの次にはお礼を言ってくれるに違いないと思ったのです。

 ところがそれからバッタリこの老人は店にこなくなりました。どうしたのだろう、病気にでもなっているのだろうか、と気にかかっていました。数日後のことです。店先を掃除していますと、元気なようすでこの老人が歩いています。奥さんは、老人が私をみつけると必ずお礼をいってくれるはずだと確信していました。それなのに知ってか知らずか何の礼も言わずに通りすぎてゆきます。腹がたちました。許せないことだと思いました。その一日はこのことが気になって仕事に熱中すること、かできませんでした。せっかく人が親切にしてやったのにと、夜ふけになっても腹の虫がおさまりません。お礼を言わない老人が憎くなってきました。

 そしてそのあくる日に、この奥さんは友人にその話をすると、たまたまその老人の住居を知っていた人で、今からいってきてあげるといいます。その友人のことばを聞いた老人は、「私がいつもあの店ヘパンを買いにいったのは食べるためではないのです。ごらんのように私は貧乏画家です。ただ私はいつもかたくなった食パンを画材にしているのです。あの日のパンには、バターがたっぷりぬってあって、私も気づかずにそれで画用紙をゴシゴシやったものですから絵がすっかりだめになってしまいました。

 しかしそれも奥さんの悪意ではなかったとわかっていましたので、そっとしておこうと思っていました。ただあの日以来私はあの店ではパソを買わないようになりましたがね」とつぶやくようにいったそうです。

 このパソ屋の奥さんの行為はやはり善事です。ただ相手の立場を理解できなかったがために、結果的には人を傷つけたのです。もっと困ったことは、善事がお礼を期待する心を生じさせ、相手のお礼がないと、逆に相手を憎みののしるようになることです。そこには善の行為の仮面をつけた我執があるばかりです。人のためにした親切な行為や善意も我欲のまざった「雑毒の善」となってしまいます。

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