アンティマキのいいかげん田舎暮らし

アンティマキは、愛知県北東部の山里にある、草木染めと焼き菓子の工房です。スローライフの忙しい日々を綴ります。

旧三州街道の杣路峠を歩きました。

2020-03-23 15:50:06 | イベント出店情報とそのほかのお知らせ
   稲武では今年、例年より半月近く早めに梅が満開になりました。早すぎる春の一日、旧三州街道のうちの杣路峠を歩きました。

   杣路峠は長野県根羽村から豊田市稲武地区野入集落に至る道にあります。野入からの入り口に車を止め、別の車に同乗して長野県根羽村の月瀬の大杉の公園で駐車。岩場を流れる小川を見ながらつり橋を渡ると、樹齢1800年と言われる大杉が眼前に。

   しめ縄がゆるんくるのを防ぐために金属棒が立てかけてあります。

   見たことのない小さなきのこ。あたりは、のどかな山里風景で畑仕事にいそしむ人の姿も見られました。

   細かい花粉がたくさんついた花らしいものが道端にわんさとたまっています。

   この木のものらしい。

   最初の休憩は防火用の用具入れらしい箱の前。木でできていて赤いペンキが塗られているかわいい箱です。

   檀香り梅が花盛り。黒文字と同じ仲間だそうで、いい匂いがしますが、黒文字のほうが上品。

   民家を離れてひたすら山道を歩きます。旧街道そのものかどうかはよくわかりませんが、舗装されていて歩きやすい。

   道の真ん中にぽつんと、なにものかのうんこが。黒いのは、動物性のたべものを常食する動物なのではないのかしら。

     この日のメンバーは、大人三人、男児三人。男児たちはどこからともなく木の棒を調達し、ときには杖、ときには剣、ときにはこうして地面をつつく道具にしています。道は途中から舗装でなくなり、砂利道に。

     なだらかな上り坂を経て、杣路峠に。書かれた札は、土砂に埋まっています。

     写真上方右手から倒れ掛かっている木は桜。昔は、この桜のある場所が峠の位置だったらしい。通りやすいよう切り通しを作ったのがいつごろかわからないのですが、今の最も高い場所とは少しずれています。

     道祖伸らしい像。比較的新しいみたい。

     いつの植林かわかりませんが、中馬街道と呼ばれていたころは、これほどのスギやヒノキの林ではなかったはず。広葉樹や針葉樹の混じった林が両脇に広がっていたのだとおもいます。

     行良神社につきました。信州から奥三河一帯には、南北朝時代、後醍醐天皇の息子の行良親王が逃れてきたという伝説があります。追っ手を逃れて歩き続けた彼が疲れて休んでいた時に、地元の人が汲んできてくれた水がこの場所にあった清水らしい、というので明治期に建てられた神社がこちら。建物右手のブナが古い。このブナの下に水が溜まっていたらしい跡があります。

     複雑な形になったブナ。でも樹齢は200年ほどで、親王がもしここを通ったとしても見てはいないようです。

     雷の落ちた杉。社の前の細い道が野入に至る旧三州街道なのですが、急に細い山道になり、坂も多くなりました。

     人間が削ったように木の皮が散乱しています。

     信州と三州(長野県と愛知県三河地方)の境。何が目印か不明です。

     杉の実の食べかす。緑色の杉の実はめったに見られません。樹上で食べ、食べかすを落としたらしい。

     一緒に落ちてきた完全な形の実。

     沢には「馬の水飲み場」の縦看板が。

     途中、崖くずれで、道がほぼ消えてしまったようなところもあって、ちょっとひやひやしましたが、なんとか野入の入り口に到着しました。

     全行程5.4キロほど。4分の3ほどはなだらかで、のどかな気分で歩けます。ヤマアジサイやコアジサイの群落があちこちにあり、花の盛りの6月頃に歩くと、たのしめそうです。のこりの行程はうっそうとした針葉樹の森ばかりで下草も生えておらず、気分よく歩ける道とはいいがたい。でもスリルはあるから子供にはおもしろいかもしれません。危ない場所もありますが。久々の山歩きだったので、帰宅後こたつに入って眠ってしまい、起きたのは3時間後でした。



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