アンティマキのいいかげん田舎暮らし

アンティマキは、愛知県北東部の山里にある、草木染めと焼き菓子の工房です。スローライフの忙しい日々を綴ります。

奄美・加計呂麻島の旅②

2018-12-30 17:47:40 | 小さな旅
   女友達との初旅二日目は、いよいよ目的地加計呂麻島へ。
  
   小さな港ですが、表示盤?の示すところは壮大。

   早めについたので、付設の市場で買い物しました。温州ミカンの類なのでしょうか。厚い皮のこの青いミカンは、黄色くなると酸っぱくなるそう。こちらと逆です。

   ふてぃもちは、草餅。ただし、餡は入っていません。包んである草は月桃。この月桃の薬効はたかく、加計呂麻ではあちこちでみかけました。ほんのりした香りが上品です。素朴なこのもちは、私たちのこの日のお昼ご飯位なりました。

    市場の売り子さん、聞けば大阪から移住した方なのだそう。同僚の地元女性に頼んで書いてもらった地元の言葉がこちら。

      ちなみに、売り切れの商品はサータアンダギーだそうです。

      フェリーかけろまの発着受付所。定刻を過ぎているのに、まだ開かず。

       やっと出発。はじめてのフェリー乗船です。

      古仁屋から加計呂麻島の瀬相港には25分ほどで到着。

      最初に車で行った先は、島尾敏雄文学碑のある公園です。こちらに特攻兵器震洋の格納庫が残されているので、その見学に。

      場所は、瀬相港から10分ほど。でも、私たち以外誰の姿も見当たりませんでした。

     島尾敏雄は、海軍の将校として昭和20年にこの島に赴任。島の人たちは、島を守ってくれる部隊だとおもって歓迎しましたが、実は彼らはモーターボートに爆弾を積んで、敵艦に体当たりするという任務を負った特攻隊。島尾はその部隊長でした。

     特攻艇の格納庫は、岩の崖に作られ、今も残っています。

     モーターボートはレプリカ。彼らは毎日極秘に訓練をし、出発の命令を待つ日々をこの静かな入り江で過ごしました。
 
     しかし、出発命令はついに下されず、8月15日を迎えます。この経緯をつづったのが、「出発は遂に訪れず」。彼は、島の庄屋の娘で小学校教師だったミホとの恋に落ち、ミホは、島尾の出発後自害する覚悟でいました。このふたりはのちに結婚するのですが、ミホは戦後の東京での島尾との生活で、精神を病み、子供二人とともに一家は奄美に移住します。

     入江は静か。敵に知られずボート発進させるのにふさわしい場所と目されたのでしょう。それにしても、ボートは想像以上にちゃちでした。空の特攻機同様のお粗末さに唖然とします。

     加計呂麻島は、奄美大島の南端の瀬戸内町に含まれるのですが、その本島側の瀬戸内町にも、数か所の戦跡があります。加計呂麻島は、現在の人口は1900人ほど。稲武より500人ほど少ない、静かで小さな島なのですが、明治時代から軍事の施設が作られ、戦略上の重要な場所とされてきました。

島の西端にある安脚場もそのひとつ。海辺の細い道を西に向かって進んだのですが、あいにく戦跡のある場所に至る道が通行止めで断念。どこにも、その表示はなく、近くで時間待ちしていた加計呂麻バスの運転手さんに道を尋ねたら、そういうこたえがかえってきました。のんきというかなんというか。

     加計呂麻島は、島のほとんどが山。山と海の間のわずかな平地に集落が点在しています。道を走っていると、目立つのがお墓。立派なのです。家は、どこも小さいのに。

     さて、この日の最後の目的地は、諸鈍。比較的大きなこの集落にある公の施設で、諸鈍シバヤに関する展示物を見ることです。展示室でひときわ目を引くのは、ユタの衣装、芭蕉布です。

     諸鈍シバヤは、諸鈍に古くから伝わる伝統的なおまつり。シバヤは芝居だそうです。源平合戦に敗れた平氏の一族の一人、平資盛が流されたという伝説があるのがこの集落だとか。彼が故郷を懐かしんで、あるいは彼を慰めるために、島人が演じた芸なのだそう。素人が作ったことを強調するためか、へたくそに描かれた仮面をかぶった人たちの所作がユーモラス。

     展示館の外は、デイゴの並木が有名なところなのですが、花の盛りは五月だそうで、いまは、台風26号?のおりに波が運んだ膨大な砂が、遊歩道の脇にうずたかく積まれていました。

     通りすがりの年配の男性によると、「堤防があるからかえって土砂がたまった」とのこと。「魚も堤防のせいでかなり減ったよ」と。

     海辺沿いの廃屋。戸はアルミサッシなので、何年か前までは人が住んでいたと思われます。ブロック塀は島でしばしば見かけました。風や潮をよけるために作られていたサンゴの石垣が、いつからかブロック塀に変わったのではないかと思われます。

     諸鈍をあとに、宿泊先の伊子茂へ。夕暮れ時に到着しました。

     宿は、海宿5マイル。宿からすぐに海岸に出られます。左の白い建物は小学校。学校に通う、宿の子供らし男の子が教えてくれました。

     宿の建物は、黒砂糖の工場だったものだそう。

     いくつかの棟があります。どれも平屋ばかり。

     こちらは、自然食の料理を出してくれそう、とおもって決めた宿。夕飯は、こんなでした。

     お刺身は、たしかキホタ。聞いたことのない南の魚でしたが、新鮮でおいしかった。

     そのほかのいろいろの料理、今はすべて忘れてしまいましたが、どれも味付け、素材ともに満足。

      みそ汁は魚のあらのだしでしたが、臭みを感じず、いただけました。刺身のお醤油が鹿児島特有の甘いお醤油でないのも、よかった。

      
  

       
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奄美・加計呂麻島の旅①

2018-12-30 15:05:01 | 小さな旅
  10月の終わりから11月の初めにかけて、奄美大島に旅行しました。めあては、加計呂麻島。奄美本島の南の港からフエリーで25分ほどのところにある小さな島です。

  この島には知人が住んでいます。彼女の名前は天野宏美さん。little life という名前の海のツアーガイドをご夫君とともにこなしています。8年ほど前、大阪の友人が私宅に彼女を連れてきたことがあり、そのときから、「いつか加計呂麻島に行ってみたい」とおもっていました。

   この、聞きなれない名前の島、実は私はずいぶん前から知っていました。何十年も前のことですが、島尾敏雄の「出発は遂に訪れず」を読み、その後、彼と彼の妻・島尾ミホとの激しいやり取りを描いた「死の棘」そのほか、彼の著書を読み漁ったことがあったからです。知った人が住んでいるなら、いつかいってみたいものだと、ぼんやりおもっていました。

   今年の初夏のころ、同年の友人と話をしていたときに、彼女が「死ぬまでに、一度でいいからスキューバダイビングをしたい」と言いだしました。「死ぬまでにしたいことがあり、そのことが何とかすれば実現可能なら、するべきだ」と、二人の意見がそこで一致。「では、加計呂麻島へ行こう」ということに突然決まりました。

   宏美さんにさっそく伝え、先方の都合と、島の気候の最もいいときに行く、ということになりました。それが10月の下旬から。以来数か月にわたって、ぼつぼつ準備を整え、6泊7日の奄美の旅が実現しました。
 
   10月31日、早朝セントレアを発ち、鹿児島へ。それから奄美空港へ。こちらでレンタカーを借りてまず向かったのが大島紬村。泥染めをする、というのも、今回の旅大きな目的でした。向かう途中、郷土料理鶏飯をたべに、ひさ倉という大きなお店に。白いご飯の上に鶏肉や卵、ショウガなどの薬味をのせ、鶏スープをかけて食べるもの。奄美が薩摩藩の支配下にあったとき、藩の役人をもてなすために供したのがこの鶏飯だそう。といっても、もとは鶏の炊き込みご飯の様なものだったそうで、汁かけになったのは戦後のことだとか。

   いずれにしろ、これがごちそう?とはじめは思いましたが、濃厚なスープをとるのに、ぜいたくなほど鶏肉をつかうのでしょう。ちょっとわたしには重すぎましたが、のこさずいただきました。帰りしな、スタッフに、米の産地を尋ねると、「鹿児島本土からきている」とのこたえ。昔は米作もさかんだったのだそうですが、いまは米を作る人がいなくなったのだとか。そういえば、道中、田んぼはほとんど目にしなかった気がします。

    さて大島紬村は、大島紬の会社が経営している施設で、予約なしでも泥染め体験をさせてくれるところ。20年、泥染めに携わってきたという年配の男性から手ほどきを受け、私はTシャツ、友人はバンダナを染めました。

    泥染めのできる場所は、奄美でも、北のほうにかぎられているのだとか。ずっと昔、本島の北に隕石が落ち、そのせいで鉄分のたくさん含まれた泥のある場所ができたのだそうです。

    大島紬の染色に使う泥染めは、簡単に言うとシャリンバイの鉄媒染。シャリンバイは、このあたりに山野のどこにでも生えている木だそうです。地の呼び名はテイチギ。

    その木のチップを煮だし、出てきた色がこちら。

     染め体験では、模様付けした布を染め液に浸してすぐに石灰の上澄み液に入れ、さらにまた染め液に入れて、石灰の液に。これを数回繰り返します。

     そのあと、泥の池に入って、泥を擦り付けながら染め付けます。

     色留めの薬の入った鍋で数分煮た後、よくよく水洗いをして完成。

     ほんとの大島紬の泥染めは、染めと媒染の全工程が85回! それであれだけ黒い色が出るのだそうです。でも、この赤茶色もいい。ただいまタンスの引き出しで待機。来夏、着ます。

     この木はマンゴー。この秋襲来した大型台風で幹ごとぽきんと折れたそうですが、一月ほどで新しい芽が。自然の勢いの激しいところですが、再生も早いのにびっくり。

     泥の池の全景。南国の風景です。

     染め体験後は、織り工場の見学です。今回初めて知りましたが、大島紬のあの複雑な柄を作るためには、まず木綿糸で捨て織り、ということをするのだそう。目的の模様を作るためには、糸をどのように絞ればいいのかを、その捨て織りの際に、決めるらしい。説明はしていただいたのですが、ややこしすぎて理解不能。とにかくものすごく大変な仕事だ、ということだけは実感しました。

とにかく気が遠くなるような作業の繰り返し。1反織るのに相当の時間がかかります。高価なのは当たり前と納得でした。


 この柄はよく見かける大島紬の典型的な柄のようです。

      何十年も続けてこられたベテランばかりの織り子さん。しょっちゅう直しをしていました。この直しは当たり前の作業のようです。いらした方は皆、ご高齢のかたばかり。でも最近、若い女性がはいってこられたそうで、案内してくれた社員はうれしそうでした。

      工場や泥池の周辺は広い庭。展示館や売店のほか、こんな建物が移築されていました。昔の貯蔵庫だそうです。高床式。

      ススキか何かかやぶきの屋根。こんもり盛り上がっているのが南方風。この形式、加計呂麻島で見た昔の写真集に載っている民家の屋根と同じです。

      ネズミに食われないため、高い屋根裏に貯蔵。

      この大きなカメに、穀物類をはじめなんでも入れていたそうです。

      ところで紬村は空港から車で20分ほどの場所。体験と見学の後は、一路南端の港町古仁屋へ向かいました。途中のコンビニで買ったのが、こちら。ミキです。

      ミキは、「お神酒」。奄美は、薩摩藩の支配に入る前は、琉球王国の属国でした。琉球では「ノロ」と呼ばれる巫女が人々の生活の隅々までかかわっていましたが、奄美でも、この「ノロ」の制度がしかれ、かなりの影響力をもっていたとか。ノロたちが口で噛んで醸した酒がお神酒。神に供えていたその酒を、江戸時代、薩摩藩の下に組み入れられてからはサツマイモを米に混ぜて材料として使うようになり、今のミキになったそうです。奄美の人たちの常飲する飲み物と聞いていたので、買ってみました。

      原材料は、米、米麹、サツマイモ、砂糖。水あめも入っていたかも。甘酸っぱい、素朴なカルピスのような味です。実は、奄美に行く直前、知人から自家製のミキをもらいました。そのミキには砂糖は入っていなくて、こくのある酸っぱい調味料という感じでした。オイルと塩を混ぜてドレッシングにしましたが、こちらのミキはかなり子供向き。コンビニの若いスタッフに「ミキはお飲みになりますか?」ときいたら、「飲みません。あまり好きではない」とのこたえが。稲武の子供たちが干し柿を食べなくなったのとおなじで、ちょっとと複雑な甘さが苦手の若い人が増えているのではないかしら。

      紬村のある龍郷から古仁屋までの道中は、トンネルだらけでした。153号線や257号線をしょっちゅう走っている私でも、こちらのトンネルの多さとその長さに驚きました。そしてどれも、けっこうあたらしい。ということは、けっこうカーブや高低差の多い道だったのですが、つい最近までは、もっと難路がつづいていたということなのでしょう。

      古仁屋の宿についてから食べに行った食堂でのばんごはん。たしか角煮定食をたのみました。モズクのてんぷらも頼んだため、量が多すぎて食べきれず。奄美大島の旅、一日目の報告でした。




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