アンティマキのいいかげん田舎暮らし

アンティマキは、愛知県北東部の山里にある、草木染めと焼き菓子の工房です。スローライフの忙しい日々を綴ります。

「日本残酷物語1~貧しき人々のむれ」

2024-08-14 11:22:24 | 映画とドラマと本と絵画

  本書は1959年から61年にかけて刊行された全7巻が初版。第2版は1972年刊行し、1979年の第8冊を底本として1995年に平凡社ライブラリーに収められました。最近、この本の存在を知り、図書館で借りました。監修は宮本常一、山本周五郎ほか。執筆者は宮本常一を含む22名。

  「これは流砂のごとく日本の最底辺にうずもれた人々の物語である。自然の奇蹟に見離され、体制の幸福にあずかることを知らぬ民衆の生活の記録であり、異常な速度と巨大な社会機構のかもしだす現代の狂熱のさ中では、生きながら化石として抹殺されるほかない小さき者の歴史である」(刊行のことば)

  日本は長い間貧しく、足利時代に訪れた朝鮮の外交使節は、乞食や廃疾者の多いのに驚いているそう。明治にはいって、ヨーロッパの王族が日本を訪れることになり、政府は慌てて東京市中にあふれかえっていた乞食をどうするか頭を悩ませ、その解決策のひとつとして渋沢栄一が養育院を建てたのだそうです。

  「海辺の窮民」の項には、驚くべき話が載っています。国内のあちこちの島や本州の海辺、大きい河川の岸辺の村では、船の難破によって得る食糧、材木、その他の積み荷を頼みにしていたというのです。人の不幸がわが身の幸せになる。それくらい、村が窮していたということです。

  いくつかの村では、まるでその年の米の豊作を占うのと同じように、難船が来るかどうかを占う行事がありました。ひどいところでは、助けを求める乗組員を村人たちが殺し、積み荷を村の収穫物として奪い取ったという記録も残っているそう。

  日本地図を見れば日本という国は山ばかりで中央はほぼ茶色。残りの平地に米を作り、畑を作り思い年貢を納めてかつかつ生きてきたのだなとわかります。こちらに引っ越してしったのですが、大概の家は山にへばりついたような場所にあり、陽当たりはよくない。土地の人がいうには「一番いい土地は田んぼに、二番目にいい土地は畑に、最後に残ったところが家になった」。

  中世から近世にかけての何百年かの間、日本の人口はほぼ横ばいだったといいます。生産は上がらず、食べ物がないので、子どもは育てられない。間引きや幼児殺しはあたりまえに、貧しい人々の間で行われていました。

  それでも、飢饉がくればさらに食べ物はなくなります。人肉嗜食も公然の秘密になっていました。女は女郎屋に売られ、子どもは子守に雇われる。それでもあぶれた人たちが乞食の群れになる。

  ある村で、村の若い衆が一人の女乞食を始終いじめているのを見かねて、おなじ村の正義感の強い青年がいじめをやめさせようと若い衆を説得。そのためいじめはなくなったのですが、そのかわり、女乞食への施しもパタッと途絶えたといいます。女乞食はその青年をなじり、いつのまにかその村から消えたとか。

 映画「福田村」でも描かれていることですが、下層の人たちは、さらにその下に貧しい人がいることが気持ちの救いになっている。貧しい村人にとっては乞食や非人がそのたぐいで、そして非人と呼ばれる人たちにはさらに下の身分としての朝鮮人がいることが気持ちの安定につながっている。この、女乞食をいじめるエピソードの中の若い衆たちも、いじめることによって自分たちが得ている満足感の代償として、彼女にものを与えていたということなのでしょうか。単純に善悪で測れない複雑な心の動きが、垣間見える話でした。

 耕作しやすい狭い平地の田畑では到底足りず、山間地では谷間や山陰の小さな土地を開墾し、代々少しずつ農地を広げてきました。こちらに来てよく見るようになった山陰にひっそりと一枚だけあるもと田んぼ。みな、昔の人たちが鍬や鋤を使って耕した場所なのでしょう。この本を読んで、当時の人たちの苦労がいっそう身に沁みました。

 2巻目は「忘れられた土地」。こちらも読み始めています。

 

  

コメント
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