本日、経歴について話す機会があったので、当ブログの読者にも。
大阪市阿倍野区の日赤病院で生まれました。
その当時住んでいたのは、守口市大宮通り。
そして、西区や住吉区、堺市を転々。小学生4年生の3学期から東住吉区に。
中学1年生の夏から現在の実家に。
よさみ幼稚園卒。
大阪市立鷹合小学校卒。
大阪市立中野中学校卒。
中学時代社会科クラブに所属。2年生の終わりに、部長に就任。当時8名しかいなかった部員を81名まで増やした。
高校時代1年次放送部に所属。やめて、情報統計サークルというものを作りたく、担任の先生に相談すると、数学研究部がつぶれかかっているのでそれをやってくれと言われ、
部長に就任。部員4名の数学研究部を部員数53名まで増やした。
府立阪南高校で、中野中学出身の女子2名が、山本隆雄ファンクラブを作り、会員数は阪南高校の女子12名に。定期的にひとつの封筒にまとめられたファンレターが送られてきていた。
神戸大学に入り、コンピュータのクラブを作りたくて、情報統計部を作った。部員数265名の神戸大学で一番大きな部に成長させた。
同時に、毎日放送のラジオ番組に出ていた近畿地区の大学コンピュータクラブの連合体・近畿学生コンピューター連合(加盟大学京都大学・大阪大学・神戸大学・和歌山大学・大阪府立大学・大阪市立大学・関西大学のコンピュータクラブ)が結成され、初代理事長に就任。卒業後は名誉理事長に。
また、学術系サークル統括団体の学生学会の副会長に。学生学会では、会長・副会長は、六甲台(法・経済・経営の各学部)の学部生しかなれない慣例があったが、私がその慣例を初めて打ち破り、教育学部生なのに、副会長に就任。さすがに会長にはなれないものの3年間副会長に。2・3年目には、会長より権限が強くなり、一人で、大学から各部に配分される予算額を決定していた。卒業時は、情報統計部の法学部生を選挙なしで次期会長に据えた。
神戸大学では、3年次に、卒論をのぞく、全単位を修得。(単位は優6割・良3割)
大学4年次は、情報統計部や近畿学生コンピュータ連合の活動に専念。もっと大学にいたいので、大学院にチャレンジ。教育学部の大学院の定員は10名。
30名以上が受験。13位で不合格。
何の勉強もせず、冷やかしで教員採用試験(大阪市中学社会科)を受験。当時の競争倍率15倍。
合格。しかも3月に教育委員会から電話がかかってきて4月1日採用ということであった。
4月から、大阪市のどこかの中学校の社会科教員になることも可能だったが、院浪することに。
ちなみに、院浪人するには、故意に卒論を出さなければ卒業とならずに自動的に院浪人できる。
情報統計部や近畿学生コンピュター連合の活動に専念。ゼミの教授からは、大学院に進学するなら卒論の単位はやらん。就職するなら卒論の単位はやると言われた。
一応、会社訪問も。セガの親会社となるCSKを受けたとき、面接官から、3000名以上の入社試験受験生の中からペーパーテストの成績が1番だったと告げられる。
大学院に合格してもCSKに来るとウソでもいいから言ってもらえると採用通知を出す。大学院の試験に合格すると大学院に行くと言われると不採用通知を出すことになる。
貴方のような優秀な人物には不採用通知は出せない。嘘でもいいから、今、CSKに行くと言ってくれと面接官に懇願されたが、私は、大学院に合格すると大学院に進学します。不採用通知をもらってもかまいませんと言い放った。実際には、採用通知も不採用通知も届かなかった。
そして、大学院受験。
見事、不合格。
結果発表時、すべての会社の採用試験は、終了していた。
近畿学生コンピューター連合の活動上で知り合ったシャープのテレビ事業部X1の担当課長(当ブログにたまに登場するシャープの元常務)が、シャープにおいでと言ってくれ、
採用を締め切ったあとのシャープの採用試験を一人だけで受けさせてもらった。
面接は、専務による重役面接。その時、専務から、今まで神戸大学の人を数多く面接してきたが、こんな優秀な成績(優6割・良3割)の人をみたことがないと驚かれました。
※優秀な成績の理由※
私は、塾とか行っていなかったので英語が苦手。中野中学校3年間で、英語の成績は5段階でずっと3。中学3年次に全員受けさされる五木の模試。5教科総合点による偏差値は69。英語は60。他の4教科の偏差値はすべて70台であった。天王寺高校にも行けたが、行ったところで英語で欠点。留年確実なので、家から徒歩1分でいける東住吉高校へ。
東住吉高校1年次、実力テストで英語は、450名中350位。その成績を含めた5教科総合得点では450名中7位。ちなみに、英語の成績はその後も平均以下だったが、5教科総合得点では、2年次6位/450名。3年次文系2位/360名であった。
高校3年次、通信添削を受けていて、英語が嫌いなので、国語と数学だけ受講。全国10位に入り、賞状や景品ももらっていた。
通信添削では、志望大学・学部を神戸大学経済学部に。
国語と数学の平均偏差値でコンピュータ診断(他の人は英・数・国の平均値で)。常に志願者中1位で、合格率は80%以上と出ていた。国語と数学よりは、理科と社会の方が得意なわけで、国・数・社・理 の学力は、現役で東大に行ける程度の学力があった。
神戸大学の入試。2次試験はあてもんなしのオール筆記。国・数・英だけ。英語0点。数学満点。
要は、英語をのぞいた学力では、東大現役合格コースだったので、一般の神戸大学生と比べると、良い成績が取れたわけ。
その年のシャープの採用者数は、651名と公表されていた。1名は当然私。
そして、普通の学生が合宿免許に行く卒業後で入社前の時期。私は、日刊工業新聞から出す本を執筆。
BASIC完全マスターカリキュラムという本。定価1800円。
監修山本隆雄 神戸大学情報統計部編となっているが、著作権者は私。
2刷。8000冊。
神戸大学の学生が書いた本として話題となり、ジュンク堂では、週刊ベストセラーで、赤川次郎、ビートたけしに続いて山本隆雄の名も。週間13位となっていた。
そして、シャープに入社。
2か月間岡山市の家電個人営業店(かいぶき電器・安田電化センター)で研修。その後、3か月間。上新電機J&Pテクノランドで実習。シャープのワープロ担当。3か月目に一人で月1350万円販売。J&Pテクノランドにいた正社員34名。私のようなメーカーからの新入社員研生10名。合計44名中月間販売額1位に。朝礼とかでも取り上げられ、称賛。その後、数年間ぐらい、日本橋エリアでは私の事が伝説に。メーカー派遣の新入社員研修生が店の売上1位を取ったとして。
その後は、大和郡山市にあったコンピュータ事業部に所属、橋本副事業部長(のちに取締役)の秘書をしていた。
そのポストもシャープはじまって以来という事で、私は、新入社員なのに、課長用の大きな机をもらい、部長と並んで、みんなの方を向いて座っていた。
年間40日ぐらい、東京に出張滞在。
その時東京に行った時には、パソコン界の天才と言われたマイクロソフト副社長&アスキー副社長の西和彦さんと、パソコン界の神童と言われた日本ソフトバンクの社長・孫正義さんとあっていた。パソコン界の天才と神童と両方に気軽に会えるのは、私だけと言われていた。
西さんからは六本木などでの夜の接待を孫さんとはランチを一緒に食べていた。
東京に行った時は、関東大学学生コンピュータサークル連盟という東大や早稲田など関東地区の大学のコンピュータクラブの連合体の会合にも顔を出していた。
西和彦さんは、当時は、マイクロソフトの副社長で、アメリカ・シアトルに1年の2/3。アスキー副社長として東京には、1年の1/3しかいないと言っていました。
西副社長は、私の中野の実家に3回来た。天下のマイクロソフトの副社長が、ヘッドハンティングの為、私の家に3回も来たわけ。当時は感激。
西さんは、私に、もう、名刺を作っているからと、マイクロソフト 山本隆雄(当然、英語で書かれている)の名刺を1枚くれました。
英語で書かれた名刺であったが、英語のわかる人に見せると部署がSALESとか書いてあって、マイクロソフトの営業職のようだった。
私は、マイクロソフトの本社のシアトルに行くことになるので、英語が苦手な私には、、、
西さんは、英語は得意になるでと言ってくれたが、
ちなみに、西さんの秘書に、ビルゲイツは、山本隆雄の事を知っているのかと聞いてみた。
すると、西がいつもビルゲイツに山本さんの事を言っているので、ビルゲイツは山本さんの存在を知っているとのことでした。
ちなみに、その後、ビルゲイツは、アスキーをマイクロソフトの子会社にすると言い出し、西さんはノーと言って、ビルゲイツから ユー アー クレイジー と言われた話は大きく報道されてたいました。ビルゲイツから見れば、アスキーを買収させてくれたら、西さんには、大金が入るのになぜ、断るのか。わからないという事でした。
西さんはビルゲイツと決別。アスキーの社長となりました。
アスキーの社長となってからは、私の亡き両親を東京に招待してくれました。私は両親と3名で東京旅行を堪能。夜は、氷の彫刻が施された個室で、豪華な料理を頂いたのを覚えています。
私は、東京のアスキーの本社に行くのに抵抗があったので、アスキーの大阪支社へならと言いましたが、ダメという事で、ためらっていました。
地方の人なら、東京に行けと言われると喜んで行きますが、大阪市南部に住む大阪人はダメです。絶対に大阪から離れようとしません。シャープの時も東京に転勤する話がありましたが、上新電機の常務から口利きしてもらい、東京転勤を阻止してもらったことがあります。
半面、孫正義さんは、私に対して、小さくても良いので、トップに立たなければいけないといい、会社を興しなさいと。
会社を興しても収入がないので不安だろうからソフトバンクから毎月40万円上げるので、ソフトバンクの出版の企画をすればという提案を受けていました。
いろいろと検討していましたが、シャープの退職には、踏ん切りがつきませんでした。
が、踏ん切りがつく出来事が。それは、人事考課。シャープの場合、労組と会社側とで、階級を決めて、本人に内定として通知。本人がそれに不服の場合、申し出て、再協議、階級を引き上げることもあると言う感じです。私の場合、他の同期と同じく、階級が1ランク上がる内定を受けました。いったん出された内定より決定が下がることは普通はありません。が、私の場合、内定より、決定が下がりました。大和郡山の奈良工場では、3400名が働いていましたが、内定より決定が下がった人は、12名しかいませんでした。労組でも問題化されていましたが、内定時に不服なら申し出ることが出来るが決定時についての不服は申し出ることが出来ない。心あたりがあります。橋本副事業部長など上司が他の部署へ移動。私のことを快く思っていない人が部長や参事としてきたからです。
まわりには、中川課長(のちに執行役員)しか味方がいませんでした。橋本副事業部長や中川課長は京都大出身者で、私も、京大派閥に組み入れられていました。そこで、高卒たたき上げ部長や参事が来たので、ひどい人事考課を受け、内定より格下げされたのです。私は、ほかにも内定より格下げされたものがいないか探すと、1名見つけました。その人に聞くと、内定をもらってから交通事故で長期入院。会社を休職していたと言います。私は、内定をもらってから普通に働いているのに。・・・同期より、昇格が遅れたことになり、シャープをやめることを決定しました。
上新電機での研修最終日。シャープからの研修生7名に対して、上新電機の浄弘社長から訓示を受けました。その数日後に、浄弘社長が亡くなるとはその時は、まったく知る由もありませんでした。
その中で、会社の中で派閥に入ってはいけない。派閥に入ると、いい時は、エスカレーターに乗って昇進できるが、ダメになるときは、一気に落ちる。絶対に派閥に入ってはいけない。というものでした。
その意味が、その時、身をもって知ることになりました。
近畿のコンピュータクラブの連合体のトップから、全国団体のトップになりたいという野望を持った私は、日本ソフトバンクの会議室を借りて、関東のコンピュータサークルを集めて、日本コンピュータクラブ連盟を結成しました。(顧問は孫正義さんと西和彦さん)
当初、孫さんと一緒に社団法人日本コンピュータクラブ連盟を模索しましたが、社団法人になるのにはいろいろな条件をクリアしないといけないので、厄介なので、任意団体・日本コンピュータクラブ連盟と事業部門・日コン連企画株式会社に分けるという事になりました。この日コン連企画株式会社という社名は、孫正義さんが命名したものです。
ソフトバンクを甲として日コン連企画株式会社を乙として月に40万円をソフトバンクから日コン連企画に支払う契約書を作りました。
草案者は、孫正義さんです。私は、ああでもない。ここうでもない。と言って、契約書に修正を加えました。
二人だけで作った契約書です。孫さんは、何百億円もする商談でも、5分で決めて、決済するそうで、契約書の草案から一から作ったのは、初めてだと言っていました。
そして、日コン連企画㈱の役員は、京大マイコンクラブ、阪大コンピュータクラブ、神大情報統計部から1名づつ出すことにしていました。
そして、ソフトバンクの出版企画は京大マイコンクラブの役員が担当してたいました。が、出版局長により、3か月で、成果が見られないという事で、40万円支給が打ち切られました。
非常に困りましたが、神戸大学情報統計部のメンバーが作ったD-RETURNというゲームを売り出し、ソフトバンクの流通にのっけてもらうことになりました。
40万円支給を打ち切った出版局長は、ソフトバンク社史編纂室長に移動となり、しばらくして、ソフトバンクを去りました。
社史編纂室長って、露骨な窓際役職。うちのせいで役職を追われて申し訳ないなぁと思いました。
また、D-RETURNというゲームを扱うのをためらった大阪支社の課長さんは、しばらくして名古屋支社に移動。申し訳ないなぁと思いました。
そして、D-RETURNや電脳作家(サイバーライター)など神戸大学情報統計部のメンバーが作ったゲームソフトが大ヒット。会社は、めちゃ儲かりました。
私の月収は80万円。ほかに収入があり、年収が1000万円を超えていました。
毎晩、手下の学生を引き連れて、食事に行ったり、カラオケやボウリングを楽しんでいました。
また、日コン連企画の役員に、もともと学生のリクルートで知り合っていた日商岩井(双日)の元副社長がついたため、仲間の会社富士通・ニフティ・プリントゴッコの社長などと合わせてくれました。それで、富士通では、役員を一人、日コン連につけてくれたので、便利でした。
それで、ケーブルという雑誌を発行しました。富士通やNECが常に広告を出してくれて、シャープやエレコム、エプソンなどが1回だけ広告を出してくれました。
広告収入だけで、雑誌の発行ができていました。
大阪屋という流通を通して、関西の主な書店の店頭にも置かれていました。
東京自由が丘のマンションに、日本コンピュータクラブ連盟の関東支部が置かれ、東京に行くときは、そこで寝ていました。また、東京水産大学のコンピュータクラブのメンバーがそこに住み着いていたりもしました。
日本コンピュータクラブ連盟は、全国の108大学が加盟、6000名の大きな組織になりました。
そして、ソフトバンクの情報処理会社へのリクルート雑誌を全国の加盟大学で配布を行っていました。
そんな中で、大学生と企業との交流を深めるパーティをする企画がありました。コンピュータクラブの学生を集めるのは、私の仕事で、企業を集めるのは、ソフトバンクの仕事でした。
東京と大阪で開催され、東京は、NECや富士通など大口200万円のスポンサーがついたものの、大阪は、カプコンとコナミなど50万円のスポンサーしか集まらなかった事があり、中止となりました。大阪で参加予定の各大学サークルに伝えると、みんな、ホテルでのごちそうの食べ放題をあてにしていて、がっかりしていました。
が、突然、開催となりました。ソフトバンクの担当者が孫正義さんに大阪会場のがスポンサー不足により中止になったと伝えると、山本さんの顔をつぶしてはいけないと言って、ポケットマネーで差額を出して、開催させたという事でした。
続く。