ハッカー伝言板改めえむびーまんの日記帳(山本隆雄ブログ)

日本コンピュータクラブ連盟・日本霊能者連盟・日本占い師連盟各理事長・メイドリラク萌とカードカルト経営者 山本隆雄の日記帳

昭和30年代は日本国民の生活は貧しく生まれてくるのも大変だった。妊娠しても6割は生活苦のため中絶。水子供養は大切です。100%誰もが涙する地蔵和讃。

2017-09-25 10:25:23 | 駒川中野―白山 道

コメント欄に、水子で降ろされた姉 に対して、なぜと書かれていたので、お答えします。

生まれたときに亡くなった兄がいたのは、子供の時から知っていました。
私の生まれた前年の話です。
母が日赤病院で、産婦人科の先生におなかの赤ちゃんを学会出張に行く前に出してくれと依頼、先生はまだ大丈夫と言って、学会出張へ。
そして、先生が学会出張で不在時に、陣痛。インターン(研修医)が出産立ち合い。そのインターンにとって初めての出産立ち合い。
赤ちゃんの取り出しに失敗。
赤ちゃんは死亡。

ただ、不吉な前兆はあったといいます。出産前、殺風景だからと病室に親せきがフランス人形を置いてくれたとか。
風もないのに、フランス人形の頭が落下したとか。

翌年、私が誕生。

子供の時は、私は、その先生を恨んでいました。もし、母の依頼通りに、その時に、赤ちゃんを出していたら、お兄ちゃんがいたわけで。
でも、大人になって、考えが変わりました。もし、兄が生まれていたら、私は、生まれていなかったのではないかと・・・・

水子の姉の存在については、ずっと知らされないままでした。

ひょうたん良先生の滝谷不動近くの祈祷所に行ったのは、知り合って1年ぐらい 2002年ごろでした。

ひょうたん良先生にお祓いしてもらいました。横には、霊媒師の薗和子先生が、
霊がくっきりと見える先生です。

お祓い中、水子の霊が2人出てきたと言います。
一人は、男の子、もう一人は、女の子。
私は、一人だけのはずだといいましたが、薗和子先生は、水子は、男女ひとりづつ2名いると言い張ります。
家で、母親にそのことを言うと、「女の子やったん。」とポツリ。
私は、女の水子がいるという霊能者のいう事を否定しない母親に対して、不思議に思いました。

ただ、母親が、お寺に行ったとき、水子供養をしてもらっているという話は聞いていました。
兄については、瓜破にある山本家の墓の墓標には、達郎という俗名と戒名が彫られています。
お墓まいりだけで十分なのにと、不思議には思っていました。

そして、母が亡くなる2週間前、やっと教えてもらいました。
父と結婚して、妊娠した時、父は無職で、子供を産んでも経済的に育てていけないので、泣く泣く、中絶したと。
経済的事情で、中絶するなんて、現在では考えられません。

調べてみると、当時の日本は、とても貧しい国であったことがわかりました。
町には、失業者があふれ、・・

中絶について調べてみました。
私の生まれた1959年で、妊娠しても43.5%が中絶、20代に至っては、57.9%が中絶されていました。
姉が妊娠したと思われる1955年、1956年は、当時の母と同じ20代では、6割が妊娠しても、中絶されていました。



当時、高等小学校卒がほとんどの時代に、父は、旧制工業学校卒、母は、旧制高等女学校卒。
その当時としては、高学歴にあたります。その後、父は、ちゃんとした会社に就職。
私が生まれたわけです。

自分の兄弟姉妹に相当する水子がいるかどうか。知りたい人は、ひょうたん良先生の電話鑑定をお勧めします。
手下の福山君も、ひょうたん良先生の鑑定を受けて、水子がいると教えれ、母親を問い詰めると水子がいたことを白状したといいます。
親は、子供に、水子(自分の兄弟になっていたかも)がいたことを話しません。ばれるのはたいてい、霊能者に教えられてです。
http://www.reinou.jp

 

でも、当時の日本は、ものすごく貧しい国であったということは、よく覚えています。
参照 当ブログ2012年12月28日記事 福島まで自転車で。帰り3歳のとき住んでいたところを通り、御堂筋のライトアップに驚き。
子供の時のことを今でも強烈に覚えています。中央大通りのでの光景です。
3つの時、阿波座(現在の吉野家のある場所)に住んでいました。当時は、地下鉄の中央線も千日前線もなく、最寄り駅は、御堂筋線の本町駅。
外出するときは、おめかしして、両親に手をつないでもらって阿波座から本町駅まで歩いていました。
中央大通りの両側の歩道には、屋台のようなバラックがずらり。
満州からの引揚者ということを大きくなってから知りました。
電気も水もガスもないバラックで、多くの人が暮らしていました。
自分と同世代の子供たちは、みんなやせ細り、裸に近い格好で素足です。乞食のような格好です。
食事は、道端で作っていました。
覚えているのは、その子供たちの私に向けられた目です。
おめかしして、両親に手をつないでもらって歩いている私に向けられる羨望のまなざしです。
3歳の時の記憶で今でも、鮮明に残っているのは、その羨望のまなざしだけです。
その時、3歳の身でありながら、自分だけが、こんな豊かな暮らしをしてよいのかなぁと思いました。
当時の日本って、本当に貧しい国でした。

水子の話に戻すと、

真言宗の仏前勤行集の中に、地蔵和讃というものがあります。
私は、節をつけて歌うことができますが、
歌っていると、いつも、目から涙がこぼれます。
私は、高野山に行ったとき水塔婆に水子の戒名を書いてもらったり、お坊さんに月参りに来られた時、水子の追善供養をしてもらっています。
皆さんも、この歌を歌って、水子供養の大切さを感じてくください。

「娑婆に残りし父母は追善供養の勤めなく」

私は、娑婆に残りし父母ではなく、弟にあたりますが、追善供養の勤めあり です。

https://www.youtube.com/watch?v=SOO4ePanpnU

私は、100%涙しますが、皆さんはどうですか。

こんなバージョンもありました。こちらの歌詞は知りませんでした。

https://www.youtube.com/watch?v=q-WJD2C5zpQ

歌詞-------------------------------

これはこの世のことならず
死出の山路の裾野なる
さいの河原の物語
聞くにつけても哀れなり

二つや三つや四つ五つ
十にも足らぬおさなごが
父恋し母恋し
恋し恋しと泣く声は
この世の声とは事変わり
悲しさ骨身を通すなり

かのみどりごの所作として
河原の石をとり集め
これにて回向の塔を組む

一重組んでは父のため
二重組んでは母のため
三重組んではふるさとの
兄弟我身と回向して
昼は独りで遊べども
日も入り相いのその頃は
地獄の鬼が現れて

やれ汝らは何をする
娑婆に残りし父母は
追善供養の勤めなく

(ただ明け暮れの嘆きには)
(酷や可哀や不憫やと)
親の嘆きは汝らの
苦患を受くる種となる

我を恨むる事なかれと
くろがねの棒をのべ
積みたる塔を押し崩す

その時能化の地蔵尊
ゆるぎ出てさせたまいつつ

汝ら命短かくて
冥土の旅に来るなり
娑婆と冥土はほど遠し
我を冥土の父母と
思うて明け暮れ頼めよと
幼き者を御衣の    /ミゴロモ
もすその内にかき入れて
哀れみたまうぞ有難き

いまだ歩まぬみどりごを
錫杖の柄に取り付かせ
忍辱慈悲の御肌へに   /ニンニクジヒ ミハダ
いだきかかえなでさすり
哀れみたまうぞ有難き

南無延命地蔵大菩薩

真言

オン カ カ カ ビ サンマエイソワカ
口奄 訶 訶 訶 尾 娑摩 曳 娑婆訶

 別バージョンもあるようです。

帰命頂礼地蔵尊
無仏世界の能化なり

これはこの世のことならず
死出の山路の裾野なる
さいの河原の物語
聞くにつけても哀れなり

この世に生まれし甲斐もなく
親に先立つありさまは
諸事の哀れをとどめたり

二つや三つや四つ五つ
十にも足らぬおさなごが
さいの河原に集まりて
苦患を受くるぞ悲しけれ    /クゲン

娑婆と違いておさなごの
雨露しのぐ住処さえ
無ければ涙の絶え間無し
河原に明け暮れ野宿して
西に向いて父恋し
東に向いて母恋し

恋し恋しと泣く声は
この世の声とは事変わり
悲しさ骨身を通すなり

げに頼みなきみどりごが
昔は親のなさけにて
母の添い寝に幾度の
乳を飲まするのみならず
荒らき風にも当てじとて
綾や錦に身をまとい
その慈しみ浅からず

然るに今の有様は
身に一重さえ着物無く
雨の降る日は雨に濡れ
雪降るその日は雪中に
凍えて皆みな悲しめど

娑婆と違いて誰一人
哀れむ人があらずなの
ここに集まるおさなごは
小石小石を持ち運び
これにて回向の塔を積む

手足石にて擦れただれ
指より出づる血のしずく
からだを朱に染めなして
一重つんでは幼子が
紅葉のような手を合わせ
父上菩提と伏し拝む

二重つんでは手を合わし
母上菩提と回向する
三重つんではふるさとに
残る兄弟我がためと
礼拝回向ぞしおらしや

昼は各々遊べども
日も入相のその頃に
地獄の鬼が現れて
幼き者の側に寄り

やれ汝らは何をする
娑婆と思うて甘えるな
ここは冥土の旅なるぞ
娑婆に残りし父母は

今日は初七日、二七日
四十九日や百箇日
追善供養のその暇に

ただ明け暮れに汝らの
形見に残せし手遊びの
太鼓人形風車
着物を見ては泣き嘆き

達者な子供を見るにつけ
なぜに我が子は死んだかと
酷や可哀や不憫やと
親の嘆きは汝らの
責め苦を受くる種となる

必ず我を恨むなと
言いつつ金棒振り上げて
積んだる塔を押し崩し

汝らが積むこの塔は
ゆがみがちにて見苦しく
かくては功徳になりがたし
とくとくこれを積み直し
成仏願えと責めかける

やれ恐ろしと幼子は
南や北や西東
こけつまろびつ逃げ回る

なおも獄卒金棒を
振りかざしつつ無惨にも
あまたの幼子睨み付け
既に打たんとするときに
幼子怖さやる瀬無く
その場に座りて手を合わせ
熱き涙を流しつつ
許したまえと伏し拝む

拝めど無慈悲の鬼なれば
取り付く幼子はねのけて
汝ら罪なく思うかよ
母の胎内十月の内
苦痛さまざま生まれ出て
三年五年七歳と
わずか一期に先だって
父母に嘆きを掛くること
だいいち重き罪ぞかし

娑婆にありしその時に
母の乳房に取りついて
乳の出でざるその時は
責まりて胸を打ち叩く

母はこれを忍べども
などて報いの無かるべき
胸を叩くその音は
奈落の底に鳴り響く

父が抱かんとするときに
母を離れず泣く声は
八万地獄に響くなり

父の涙は火の雨と
なりてその身に振りかかり
母の涙は氷となりて
その身をとずる嘆きこそ
子故の闇の呵責なれ

かかる罪とがある故に
さいの河原に迷い来て
長き苦患を受くるとぞ
言いつつまたもや打たんとす

やれ恐ろしと幼子が
両手合わせて伏し拝み
許したまえと泣き叫ぶ
鬼はそのまま消え失せる

河原の中に流れあり
娑婆にて嘆く父母の
一念届きて影映れば
のう懐かしの父母や
飢えを救いてたび給えと
乳房を慕いて這い寄れば

影はたちまち消え失せて
水は炎と燃え上がり
その身を焦がして倒れつつ
絶え入ることは数知れず

峰の嵐が聞こえれば
父かと思うて馳せ上がり
辺りを見れども父は来ず
谷の流れの音すれば
母が呼ぶかと喜びて
こけつまろびつ馳せ下り
辺りを見れども母は無く

走り回りし甲斐もなく
西や東に駆け回り
石や木の根につまづきて
手足を血潮に染めながら

幼子哀れな声をあげ
もう父上はおわさぬか
のう懐かしや母上と
この世の親を冥土より
慕い焦がれる不憫さよ

泣く泣くその場に打ち倒れ
砂をひとねの石まくら
泣く泣く寝入る不憫さよ

されども河原のことなれば
さよ吹く風が身にしみて
まちもや一度目をさまし
父上なつかし母ゆかし
ここやかしこと泣き歩く

折しも西の谷間より
能化の地蔵大菩薩
右に如意宝の玉を持ち
左に錫杖つきたまい
ゆるぎ出てさせたまいつつ

幼き者のそばにより
何を嘆くかみどりごよ
汝ら命短かくて
冥土の旅に来るなり
娑婆と冥土はほど遠し
いつまで親を慕うとぞ

娑婆の親には会えぬとぞ
今日より後は我をこそ
冥土の親と思うべし
幼き者を御衣の    /ミゴロモ
袖やたもとに抱き入れて
哀れみたまうぞ有難や

いまだ歩まぬみどりごも
錫杖の柄に取り付かせ
忍辱慈悲の御肌に   /ニンニクジヒ  オンハダ
泣く幼子も抱き上げ  /イダキ
なでさすりては地蔵尊

熱き恵みの御涙    /オンナミダ
袈裟や衣にしたりつつ
助けたまうぞ有難や

大慈大悲の深きとて
地蔵菩薩にしくはなく
これを思えば皆人よ
子を先立てし人々は
悲しく思えば西へ行き

残る我が身も今しばし
命の終るその時は
同じはちすのうてなにて
導き給え地蔵尊
両手を合して願うなり

南無大悲の地蔵尊
南無阿弥陀仏阿弥陀仏

真言

口奄 訶 訶 訶 尾 娑摩 曳 娑婆訶








 

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4 コメント

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平成30年代(実際には改元)は在日の生活保護は貧しく生まれて来るのも大変になりますように。 (Unknown)
2017-09-25 12:59:53
基地外の活動禁止韓国兵など100%ホモが涙するチン言。
「ジンニク オンナヤダ ヒトハダ オトコハダ ハッテン」
子孫根絶、民族浄化に有効な呪文だと言われています。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-09-25 16:55:02
学会って創価やろ?創価の病院や。
姉は試し腹やな。さすが東住吉。
平野と並び創価在日の巣窟。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-09-25 17:01:41
産婆がおるやろ。
医者に頼むから死んだんや。
さすがこの親にしてこの息子。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-09-25 18:24:24
えむびーまんの現在は生活は貧しくウンコを生むのも大変。安物買いしても6割引きは見切り品のため食ったら下痢。正露丸は大切です。100%誰もが黄ばむ下痢ブリーフ。
返信する

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