(1)人を裁くのか、犯罪行為を裁くのか、人も犯罪行為も裁くのか。犯罪行為は、責任能力者
の場合、行為の意思の有無で故意か過失に分けられ刑量が異なる。責任能力のない精神疾患
者の場合には、通常、法的責任を問われない。
判決法例は、「犯罪行為」は刑量の判断材料で、「人」を裁くことに主眼が置かれていると見る
ことができる。
08年に東京・秋葉原の人で賑わう遊歩道に車で乗り付け、割り込み17人を殺傷した常軌を逸
した無差別殺傷事件で、弁護側から請求されていた被告の再度の精神鑑定に裁判法廷は「必要
がない」と却下した。すでに鑑定医の「事件当時、被告に精神疾患はなかった」鑑定を支持した。
犯罪行為の概要、構図を見れば、被告の責任能力(結果予測)との整合性は十分だ。
(2)弁護側は、検察による一方的で誘導的な審理進行から可能な限り法的責任を負うべき被告
のそれでも利益を弁護して、公平で公正な裁判を一方で維持する立場にある。
時にはまるでこじつけのような事例まで持ち出して、無理やりにでも被告の犯罪行為を正当化
(あるいは無罪主張)しようということが公然となされる。
実行した重大な犯罪行為に比較不釣り合いのそぐわない無理やりの正当化弁証には、誰もが
違和感を覚えることがある。
しかし、冷静に考えればそれは一概に違和感のあるものではなく、法例は犯罪行為ではなく
「人」を裁くからだ。「人」を裁くからと言って、法例は報復主義はとらない。
「人」を裁く相当の犯罪行為であることの実証のプロセスでは、その人の「意思」や「責任能力」
の有無が肝要要件で、応々にしてその犯した重大な犯罪行為と社会常識、パラダイム(paradigm)
に基づく法的対応との落差に驚くこともあるのは、そのせいだ。
(3)罪を憎んで人を憎まずという慈悲の言葉がある。罪は一過性のあるものだけれど、人は後悔
もすれば、反省もし、立ち直る機会によっては無限の回復能力、社会貢献の可能性を持つものだ。
秋葉原事件のような凶悪無比事件ではどうか。
(4)遊歩道で休日を自由に楽しむ人に突如、車で割って入って17人もの生命を殺傷する未聞の
凶悪犯罪行為の一貫性の中に、故意や過失や未必(結果予測)は存在しないのか。
責任能力(responsible faculty)と結果予測(outcome prediction)は相反するものであることも
ある。
犯罪行為は刑量判断で、裁判は「人」を裁く以上、手続き上、精神鑑定はプロセスだが、犯行時
の心理状態と責任能力の有無を過度に結びつけるのも、事件を起こす虚無的(空虚)な精神状態
の人と犯罪行為をあまりに理性的、理念的にとらえすぎるのではないのか。人の意思と行動の連
鎖は無関係ではいられない。
理性的、理念的にとらえるべきは、社会全体の公平、公正観の確立による犯罪のない世界だ。
の場合、行為の意思の有無で故意か過失に分けられ刑量が異なる。責任能力のない精神疾患
者の場合には、通常、法的責任を問われない。
判決法例は、「犯罪行為」は刑量の判断材料で、「人」を裁くことに主眼が置かれていると見る
ことができる。
08年に東京・秋葉原の人で賑わう遊歩道に車で乗り付け、割り込み17人を殺傷した常軌を逸
した無差別殺傷事件で、弁護側から請求されていた被告の再度の精神鑑定に裁判法廷は「必要
がない」と却下した。すでに鑑定医の「事件当時、被告に精神疾患はなかった」鑑定を支持した。
犯罪行為の概要、構図を見れば、被告の責任能力(結果予測)との整合性は十分だ。
(2)弁護側は、検察による一方的で誘導的な審理進行から可能な限り法的責任を負うべき被告
のそれでも利益を弁護して、公平で公正な裁判を一方で維持する立場にある。
時にはまるでこじつけのような事例まで持ち出して、無理やりにでも被告の犯罪行為を正当化
(あるいは無罪主張)しようということが公然となされる。
実行した重大な犯罪行為に比較不釣り合いのそぐわない無理やりの正当化弁証には、誰もが
違和感を覚えることがある。
しかし、冷静に考えればそれは一概に違和感のあるものではなく、法例は犯罪行為ではなく
「人」を裁くからだ。「人」を裁くからと言って、法例は報復主義はとらない。
「人」を裁く相当の犯罪行為であることの実証のプロセスでは、その人の「意思」や「責任能力」
の有無が肝要要件で、応々にしてその犯した重大な犯罪行為と社会常識、パラダイム(paradigm)
に基づく法的対応との落差に驚くこともあるのは、そのせいだ。
(3)罪を憎んで人を憎まずという慈悲の言葉がある。罪は一過性のあるものだけれど、人は後悔
もすれば、反省もし、立ち直る機会によっては無限の回復能力、社会貢献の可能性を持つものだ。
秋葉原事件のような凶悪無比事件ではどうか。
(4)遊歩道で休日を自由に楽しむ人に突如、車で割って入って17人もの生命を殺傷する未聞の
凶悪犯罪行為の一貫性の中に、故意や過失や未必(結果予測)は存在しないのか。
責任能力(responsible faculty)と結果予測(outcome prediction)は相反するものであることも
ある。
犯罪行為は刑量判断で、裁判は「人」を裁く以上、手続き上、精神鑑定はプロセスだが、犯行時
の心理状態と責任能力の有無を過度に結びつけるのも、事件を起こす虚無的(空虚)な精神状態
の人と犯罪行為をあまりに理性的、理念的にとらえすぎるのではないのか。人の意思と行動の連
鎖は無関係ではいられない。
理性的、理念的にとらえるべきは、社会全体の公平、公正観の確立による犯罪のない世界だ。