うろ覚えライフ。

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取手バス襲撃通り魔 続報

2010年12月20日 | 時事社会ログ

 

○茨城・取手のバス内切りつけ:「当日朝、自転車で駅に」 斎藤容疑者、2日間野宿し

 

  茨城県取手市のJR取手駅西口で路線バスの乗客が無差別に切りつけられるなどして14人が負傷した事件で、殺人未遂容疑で逮捕された同県守谷市、無職、斎藤勇太容疑者(27)が「事件2日前の15日に自宅を自転車で出て野宿し、事件当日の朝、取手駅まで自転車で来た」と供述していることが、捜査関係者への取材で分かった。県警は自宅を出てから事件を起こすまでの間、隣接する守谷、取手両市を中心に自転車でさまよっていた可能性があるとみて、詳しい足取りを調べている。

 斎藤容疑者は「自転車を取手駅西口の歩道に止め、襲撃現場まで歩いた」とも供述しており、県警は放置されていた自転車を押収した。

 また、斎藤容疑者は「千葉県柏市で実行しようと思ったが人通りが多くてできなかった」「守谷市で実行することも考えていた」と供述していたが、それぞれJR柏駅と、つくばエクスプレスの守谷駅だったことも捜査関係者への取材で分かった。両駅での襲撃を断念した末、最終的に取手駅を実行場所に選んだとみられる。事件で使われた包丁の柄に巻かれた粘着テープには「柏で実行」という文言とともに「4月1日」と書かれており、県警は日付の意味を追及している。

 

取手通り魔 1年前リストラ、自室に引きこもる

 

  JR取手駅前で路線バス乗客の中高校生らを無差別に襲ったとして逮捕された斎藤勇太容疑者(27)は、守谷市内で父親と暮らしていた。約1年前に当時勤務していた会社をリストラされて以降、自分の部屋に引きこもるようになったという。

父親によると、斎藤容疑者は3人きょうだいの末っ子で兄と姉がいる。母親は約3年前に亡くなり、現在は父親と2人暮らし。地元の小中学校を経て、取手市内の県立高校を卒業。その後、就職して会社員など約10の仕事を転々としてきた。

斎藤容疑者は約2年前に倉庫会社に就職し、梱包作業に従事していたが、約1年前、同社と親会社の合併の都合で、リストラされたという。

それから、斎藤容疑者に変化が表れた。父親は「リストラされてから急に元気がなくなった」と明かした。一日中、部屋に引きこもり、父親が部屋に入ろうとすると怒り出し、会話も避けるようになった。食卓を2人で囲むこともなくなった。

父親は「(斎藤容疑者は)最近イライラすることが多くなった」と振り返った。数カ月前、自宅を訪れた姉が斎藤容疑者の部屋に入り、声を掛けると、「うるせえ」と怒鳴り声を上げた。

犯行前日の16日朝、父親が起床すると、自宅に斎藤容疑者の姿はなかった。

父親は「今は(けがをした)相手の方の状況がどうなのかで頭はいっぱい」と話した。「小さいころから厳しいことを言わなかった。自分が甘やかし過ぎた」と自分を責めた。

 

 

 やっぱりこういう、無差別に公衆を襲撃する通り魔事件をやる犯罪者、っていうのの鍵は“孤独”だよね。たった一人で部屋に長い間じいーっと籠もってて、一人で堂々巡りみたく考えてると、何か考えが偏っちまって危ない一方向ばかりになってしまう、という気がする。来る日も来る日も相手は誰も居らずに、たった一人で考え込んでる。その、アタマの中を堂々巡りしている考えというのも実は、内容がなかったり、ものすごく愚かだったりして、偏ってしまっている。

 やっぱり、こういう事件を犯す人たち、秋葉原の加藤も今度の斎藤も他の類似犯も、他に何でも話せる、心を許せる相手が誰も居なかったんだよね。多分。親兄弟はダメだけどね。親兄弟以外の相談相手。恋人でも親友でも先輩でもいいんだけど、誰か、構えずに何でも打ち明けられるような友達的な相手が居れば良かったんだけど、孤独なんだよなあ。相談相手が居れば全然違うと思う。

 みんなも自分のことで精一杯で他の変なヤツなんか、構っている余裕も暇もない、って感じだからね。大衆には、夢も希望も見えないように映る閉塞的な社会。

 何かこういう事件起こすヤツって、本当に馬鹿なヤツでもない場合が多いように見える。けっこう知的水準は高そうなヤツラ。秋葉原の加藤も県下有数の高偏差値進学校出身でしょ。今回の斎藤は一応県立高校卒業しているし、一度は東京六大学進学を目指したくらいらしいし。それに文学青年だ。小説ばっかり読んでたら想像力が鍛えられて脳味噌が豊かになり、こういう馬鹿馬鹿しいことはやらないような気もするんだけど。

 加藤も斎藤も大学受験の挫折がそもそもの始まり、というのはありそうだ。加藤は高偏差値高を出ながらも母親との確執からか、自動車整備の専門学校へ行ってるし、斎藤は六大学受験に失敗して就職している。斎藤はそれでもランク落とすか再チャレンジすれば良かったのに、家庭的に余裕がなかったのかな。

 大学もさあ、日本社会はどうせアメリカを真似てここまで来たのなら、大学は全入出来るけど中に入ってから猛勉強しないと卒業できない、ようにすれば良いんだよ。そうしたら大学のレジャーランド化なんてなかったんだよ。入ったはいいが、中で常に勉強してないとすぐに取り残される、一度取り残されたらなかなか追い着けず、卒業は大変難しい、と。つまり社会では「中退」は意味がなく、あくまで「卒業」してないと価値がないようにする。そうすれば受験戦争もない。受験戦争は本人と学校と家庭と3者でやる受験地獄でしょ。そうじゃなくて大学入ってからの本人だけの勉強地獄が待っている、と。それだったら、斎藤も六大学の何処かに入れたし、入ってから大学の講義に着いて行けずに落第するなら、本人も「俺の脳味噌の程度もこんなものかあ」と、納得が行くでしょ。それを受験のたった1日のペーパーテストの試験だけで全てを決められるのは、やはり後々納得が行かないよ。「あの日はおかしかった、調子悪かった、あの日は実力を出せなかった。俺のアタマの程度はあんなものじゃない」とかいつまでも悔いが残るでしょ。大学の講義が解らなくて昇級できなくて中退しても、「まあ、俺はこんなもんか」と諦めもついて納得して就職できる。企業も“新卒”にはこだわらない。これは絶対必要だ。今現在すぐに改めるべきだ。企業は絶対に“新卒”にこだわらなくする。「企業の新卒オンリー」というのは、今現在の大きな社会問題だしね。 

 それとこの犯人の持ってた夢、「小説家になりたい」なんていうのは宝くじに当たるよりも難しいし、小説家になったところでそれで食べて行けるのか、という問題はある。現在も、何がしかの賞を取って一応、作家の端くれになったものの、続けて行けない人っていっぱい居るだろう。つまり作家になったら最初の1作だけでいい訳ではなく、次々にコンスタントに創作を世に出し続けて行かないと食べては行けないのだ。僕が若い頃、「いずれ何らかの文筆で立って行こう、と考えている人は、中央線沿線だけで1万人は居る」という話を聞いたことがある。まあ、文章くらいは誰でも書けるし、流行小説を読んでいると自分も売れっ子作家になってセレブな生活したい、とは思うものだろう。それは漫画家でも同じことだろうし。随分前にだが、漫画家の寿命はだいたい5年、という話を聞いたことがある。漫画家も努力のかいあって運もあって、勿論それなりの才能もあって、雑誌連載が持てても、その人の描く漫画が人気が出なければすぐに打ち切りだし、その後連載が取れる保障は何処にもない。漫画家も、一応プロの端くれにはなったものの、すぐに消えた漫画家さんはいっぱい居るのだろう。当然だが、何でもそんなに甘くはない。だいぶ前に読んだ、宮部みゆきさんのエッセイか何かだったと思うが、細部は忘れたけど、あれだけ才能溢れる人でも、無論、読書量もメチャメチャすごいだろうが、作家になろうと決めてからはそれなりの、プロの文章が書けるようになる学校か講座かに通って文章修行している。師事したんだっけか?違うか。それからプロの作家の文章を1冊まるまる写して書く、とか修行したんじゃなかったかな?違ったっけ。もうかなり前読んだものだから忘れたけど。

 何か90年代末から年を追うごとに年々、世の中の閉塞感は強くなるよなあ。暗く重くばかりなって行っている。何だか、みんなが夢も希望もない、という感じで。小説家になる、とかいうホントの夢みたいな、夢想に近いような夢じゃなくて、もっと等身大の現実感ある夢とか希望が持てないもんかなあ。一度、レールから外れるともう一生、派遣とか臨時とかアルバイトの繰り返しとかいうクラスに身を置いて、そこからの上昇はまず無理な社会。若者が「もうここいらで自分の人生を終わりにしたい」と考えてしまう社会。

 90年代末頃から言われたITバブルとかで一時期は儲けていたIT産業従事者が、今現在は仕事がなくてローン地獄で大変な状況になっている人もいっぱい居るし。相変わらず仕事はなくて失業率はメチャ高いし。ワーキングプアは年々ひどい状態になって、重労働でわずかな金しか稼げないし。

 話を斎藤容疑者に戻すと、この男は生来の内気でヒトミシリで大人しく非社交的なキャラクターのようで、友達も出来ないしまた積極的には作らない、自分に籠もりがちな性格のようだが、こういう人間も日に日に不満が積もって行き、それはいろいろな不満なのだろうが、誰とも相談も話もしないからどんどん中で溜まって膨らんで、また一人部屋に閉じ籠っているから一方向だけにどんどんどんどん膨らんで爆発寸前まで行き、ついにこういう爆発の仕方をしたのだろう。

 どうすればいいか?って、この人は性格もあるからなあ。まだ、秋葉原事件の加藤の方が誰か恋人か親友さえ居れば救いはあったように思う。斎藤はこっちからフレンドリーに話しかけたって滅多にというか、なかなか自分の心を開かない人のようだもんなあ。文学青年なら昔は同人誌なんてあったけど、今は漫画はコミケなんぞ大盛況で漫画同人誌はいっぱいあるが、文学同人誌なんて聞かないしなあ。もし仮に希少にやってる人たちが居たとしてもレベルは高そうな気もするし。

 こいつは何でこんな馬鹿な真似をしたんだろうなあ。それだけだなあ。愚かしいし、不特定多数の庶民にはいい迷惑もイイトコで、とんでもないふざけたヤツアタリだ。

 朝のワイドショー番組で勝谷誠彦が言ってたけど、今までのヤツラは「大勢を殺して自分も死刑になりたい」と初めから強烈な殺意を持って決行した。しかし今度の斎藤は「自分の人生を終わりにしたい」と包丁を振り回しはしたものの、そんな激しい殺意が感じられないようなところがある。つまり凶行のハードルが下がった、と。だから、これからさらに、こういう愚行をやる模倣犯が出て来るんじゃないか、という話。確固とした明確な殺意は持たなくとも街中で、不特定多数を斬り付けて回って世の中を驚かせて大騒ぎさせてヒロイズムに浸ろう、と考える愚かしい者が。愚かな負のヒロイズムだけど。

 結局今回も長々書いて来て、何にも答えが見出せなかったなあ。

 

 

 

 昔のフランス文学に、ジャン・ジュネの「泥棒日記」というのがあるけど、斎藤容疑者は文学青年だったというが、まさか、殺さない程度にセンセーショナルな事件犯して逮捕されて服役して、殺人事件じゃないから何年か懲役くらって出て来て、受験失敗から職を転々、そしてリストラ→引き籠もり、そこからの不特定多数襲撃事件、それで獄中、という自分の体験をノンフィクション風小説にして、後々発表して華々しく文壇デビュー、とかいう計画を考えての行動じゃないだろうな。そんなことはないよね。そこまで考えてこんな馬鹿馬鹿しいことをしでかす訳はないよね。いや、何年か牢獄に居て、出て来て、体験記と自分の心情を虚実混ぜ合わせた小説書いて、本出したら売れるだろう、とか安易に考えて馬鹿げた行動起こしたんじゃないか、とかいうのがチョコッと僕の脳裏をよぎったもので。だいいち最初からそういう計画で牢屋に入った、なんてマスコミや世間に解ったらとんでもない噴飯もので、先ず絶対本は売れないし、本出してくれる出版社もないだろう。

 しかし、斎藤の最初から殺意はなかった、というのが認められたら、人数は多いが傷害事件だし、比較的罪は軽いんじゃないのか。懲役しても何年かで出て来るんじゃないかなあ。出て来てまたこういうことをしでかさない、という保障はないだろう。

 年の瀬から正月に掛けて、街々の大勢の人出の賑わいを、TVなんかで映し出して、世間の幸福そうな人たち、と捉えて、俺だけどうしてこんなに不幸なんだ、幸せそうなヤツラを数人道連れにして俺の人生を終わらせる、とかいうアタマのおかしい凶悪犯が出て来なければいいけど、切に、と思います。みんなよく考えてね。

コメント (2)
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