いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
「ありがとう」を言わない国
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
※「極楽飯店」の第一話はこちらから。
********************************************
日本テレビの「世界番付」っていうバラエティー番組、ご存じです?
先日うちの奥様が録画していたこの番組を見て、とても感慨深いモノを感じたので、今日はその話をさせてください。
「カルチャーショック」なんて言葉があるように、文化の違いというのは、本当に「え?まじで!?」という驚きがありますよね。
世界番付では、そういった世界各国の文化の違いや常識の違いを、色々な角度から紹介してくれていました。
中には誇張して演出しているものもあるのだろうとは思いつつも、その分を差し引いても、やっぱり違うモノは違う。
日本では当たり前でも、別な国では全然当たり前じゃなかったり、僕たちの感覚で「良いこと」が、他の国では迷惑がられたり。
その中でも、僕が特に「へ~」と思ったのは、「謝らない国」というコーナーでした。
世界を比較して、どの国の国民が一番謝らないかをランキング形式で紹介する流れだったんですけどね、実は、その「謝らない」ランキングよりも、もっと興味深かったのが、その流れから派生した「ありがとうを言わない国」という話でした。
自分が悪い事をしたと思ったのなら「ごめんなさい」と素直に謝る。
お礼や感謝を伝えるときは「ありがとう」。
我が家でも当たり前に交わされているこの言葉が、「やめてくれよ」という拒否反応で返される文化もあると、そういう話題でした。
インドのある文化圏では、親密な間柄であればあるほど、「ありがとう」は避けるべき言葉、なのだそうで。
ビックリしました。
で、どこまでホントなんだろうかと思って、その後自分でも調べてみたのですが、やっぱりホントらしくてですね。
インドやミャンマーなどに出かけた日本人の旅行記などで、確かに現地で「ありがとうはやめてくれ」と懇願されたというサイトをいくつか発見しました。
その文化圏の方々にとっては、「ありがとう」を言われることが、どうにも気分が良くないのだそうです。
その裏には、ありがとうと言われると、「せっかくの施しをつき返されている気分になる」だとか「せっかくした良いことが帳消しになってしまう」とか、「他人行儀だ」という感覚があるのだそうです。
だからこそ、親密な人にほど「ありがとう」と言ってはならぬ、ということだそうで。
日本人の感覚とはまるで別物なのですが、その意味の背景を知ると、それはそれでわかるような気がします。
「ごめんなさい」も「ありがとう」も、言葉は同じでも、全く違う意味になってしまう。
「だってそういう文化なんだもの」と言われてしまえば、浜村淳も、ヒューレン博士もタジタジです。
「ありがとう」という言葉に、どんな意味や価値を持たせるのか(見出すのか)。
それはやはり、僕たち自身の自由意志で行われていることです。
で、その時にあることを思い出しました。
誰の言葉だったのかは忘れてしまったんですけど、ある覚者の言葉にね、こんなものがあったんです。
「君がもし目覚めたいのなら、これからの人生で『ありがとう』と言ってはならない。そしてまた、言われてもいけない」
これは、「あらゆる事物に意味や価値を持たせているのは僕たち自身なのだから、その世界(マトリックス)を超えるのなら、物事に特定の意味づけをしてはならない」というバックボーンがあるものなんですけどね、同じようなことは、一休さんのエピソードにも残っていたりします。
ある寒い冬の夜、お寺の薪がなくなってしまいました。
それでもなんとか暖を取ろうと、お坊さんたちは周りに燃やせるものを探して炉にくべていたのですが、そのうち、とうとう燃やせるモノが見つからなくなってしまってさあ大変。
「ああ、どうしよう。もうすぐ火が消えそうだ」
すると一休さんはスタスタと本堂へと向かい、安置してあった仏像を抱えて帰ってきました。
そして、こともあろうか、その仏像をナタで真っ二つに!
慌てふためく僧侶らを尻目に、そそくさと火の中にくべてしまいました。
「一休! 仏様に、なんて罰当たりなことを!」
すると一休さん、今度は棒を持ってきて、燃えさかる仏像をつんつんと突きだしました。
「今度はなんだ!? 一休、何をしようとしている!?」
「え? いやね、仏様の骨を見つけようかな~と思って」
「な、何を狂ったことを!木から骨が出てくるわけがなかろう! ………あっ!!!」
「今夜はとても寒い。仏像は他にもたくさんあるんだろう?もう少し持ってきてくれないか?」
とにもかくにも。
仏像にありがたみを与えているのが、それをありがたいものだとする人間にあるのと同様、「ありがとう」という言葉にありがたみを与えているのが、それをありがたいものだとする人間にあるんですよね。
だって、実際に文化の違いで、「ありがたいもの」になったり、「気分を害すもの」になったりするんですからね。
先の番組を見ながら、そんなことを思っていました。
……と、こんな記事を書いてると、また嫌われちゃうんだろうな(苦笑)。
【ライブ・インフォメーション】
「降参(サレンダー)のススメ」出版記念と銘打ちまして、金沢で「阿雲の呼吸」を開催します。
◎3月20日(火・祝) 阿雲の呼吸 in 金沢
詳しくは阿部さんのブログにて。
←今日も○○○○○。
※「極楽飯店」の第一話はこちらから。
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日本テレビの「世界番付」っていうバラエティー番組、ご存じです?
先日うちの奥様が録画していたこの番組を見て、とても感慨深いモノを感じたので、今日はその話をさせてください。
「カルチャーショック」なんて言葉があるように、文化の違いというのは、本当に「え?まじで!?」という驚きがありますよね。
世界番付では、そういった世界各国の文化の違いや常識の違いを、色々な角度から紹介してくれていました。
中には誇張して演出しているものもあるのだろうとは思いつつも、その分を差し引いても、やっぱり違うモノは違う。
日本では当たり前でも、別な国では全然当たり前じゃなかったり、僕たちの感覚で「良いこと」が、他の国では迷惑がられたり。
その中でも、僕が特に「へ~」と思ったのは、「謝らない国」というコーナーでした。
世界を比較して、どの国の国民が一番謝らないかをランキング形式で紹介する流れだったんですけどね、実は、その「謝らない」ランキングよりも、もっと興味深かったのが、その流れから派生した「ありがとうを言わない国」という話でした。
自分が悪い事をしたと思ったのなら「ごめんなさい」と素直に謝る。
お礼や感謝を伝えるときは「ありがとう」。
我が家でも当たり前に交わされているこの言葉が、「やめてくれよ」という拒否反応で返される文化もあると、そういう話題でした。
インドのある文化圏では、親密な間柄であればあるほど、「ありがとう」は避けるべき言葉、なのだそうで。
ビックリしました。
で、どこまでホントなんだろうかと思って、その後自分でも調べてみたのですが、やっぱりホントらしくてですね。
インドやミャンマーなどに出かけた日本人の旅行記などで、確かに現地で「ありがとうはやめてくれ」と懇願されたというサイトをいくつか発見しました。
その文化圏の方々にとっては、「ありがとう」を言われることが、どうにも気分が良くないのだそうです。
その裏には、ありがとうと言われると、「せっかくの施しをつき返されている気分になる」だとか「せっかくした良いことが帳消しになってしまう」とか、「他人行儀だ」という感覚があるのだそうです。
だからこそ、親密な人にほど「ありがとう」と言ってはならぬ、ということだそうで。
日本人の感覚とはまるで別物なのですが、その意味の背景を知ると、それはそれでわかるような気がします。
「ごめんなさい」も「ありがとう」も、言葉は同じでも、全く違う意味になってしまう。
「だってそういう文化なんだもの」と言われてしまえば、浜村淳も、ヒューレン博士もタジタジです。
「ありがとう」という言葉に、どんな意味や価値を持たせるのか(見出すのか)。
それはやはり、僕たち自身の自由意志で行われていることです。
で、その時にあることを思い出しました。
誰の言葉だったのかは忘れてしまったんですけど、ある覚者の言葉にね、こんなものがあったんです。
「君がもし目覚めたいのなら、これからの人生で『ありがとう』と言ってはならない。そしてまた、言われてもいけない」
これは、「あらゆる事物に意味や価値を持たせているのは僕たち自身なのだから、その世界(マトリックス)を超えるのなら、物事に特定の意味づけをしてはならない」というバックボーンがあるものなんですけどね、同じようなことは、一休さんのエピソードにも残っていたりします。
ある寒い冬の夜、お寺の薪がなくなってしまいました。
それでもなんとか暖を取ろうと、お坊さんたちは周りに燃やせるものを探して炉にくべていたのですが、そのうち、とうとう燃やせるモノが見つからなくなってしまってさあ大変。
「ああ、どうしよう。もうすぐ火が消えそうだ」
すると一休さんはスタスタと本堂へと向かい、安置してあった仏像を抱えて帰ってきました。
そして、こともあろうか、その仏像をナタで真っ二つに!
慌てふためく僧侶らを尻目に、そそくさと火の中にくべてしまいました。
「一休! 仏様に、なんて罰当たりなことを!」
すると一休さん、今度は棒を持ってきて、燃えさかる仏像をつんつんと突きだしました。
「今度はなんだ!? 一休、何をしようとしている!?」
「え? いやね、仏様の骨を見つけようかな~と思って」
「な、何を狂ったことを!木から骨が出てくるわけがなかろう! ………あっ!!!」
「今夜はとても寒い。仏像は他にもたくさんあるんだろう?もう少し持ってきてくれないか?」
とにもかくにも。
仏像にありがたみを与えているのが、それをありがたいものだとする人間にあるのと同様、「ありがとう」という言葉にありがたみを与えているのが、それをありがたいものだとする人間にあるんですよね。
だって、実際に文化の違いで、「ありがたいもの」になったり、「気分を害すもの」になったりするんですからね。
先の番組を見ながら、そんなことを思っていました。
……と、こんな記事を書いてると、また嫌われちゃうんだろうな(苦笑)。
【ライブ・インフォメーション】
「降参(サレンダー)のススメ」出版記念と銘打ちまして、金沢で「阿雲の呼吸」を開催します。
◎3月20日(火・祝) 阿雲の呼吸 in 金沢
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コメント ( 83 ) | Trackback ( )
« 同ジャンル | なんもさ » |
そうそう、前記事でも結局あらゆることに意味づけしてるだけだよねー、川下りして、大海原とひとつになるのって、その意味づけを放棄し切った時だよねとコメントしようと思ってました。
本、発売日前でも売り出しているお店(リブロじゃなくても)があるらしいので、近所の本屋チェックしてきまっす。
人の意識の判別・認知・判断が一切無くなると…
そこには【ただあるだけ】なんてなると。。。
なんとなく漠然にイメージするのですが。
ここで思うのですが。
もし意識の中の記憶というか・・・
過去の経験・記憶・体験を消していくと
人は夢…というか表現が難しいのですが
制限や基準、枷から正真正銘…自由というか
無駄な苦しみ?もがき・抵抗から離れる事が
可能でしょうか?
雲黒斉さんに質問したいです。
非常に興味のある事なので・・・
弔辞を思い出しました。
言葉では伝えきれない事はたくさんありますね。
そんな事を考えました。
○○○○○。
遠い昔よく聞いてました。引っ越ししたから、もうきけませんが。
ツボにはまりました。でもありがとうは言いません。
ちょくちょく考えるのが
名前が無かったら
地球人はどんな生活になるのかなって。
テレパシーで通じたとしても
二人で話してるなら通じるけど
第三者のことを話すときは名前がいるかな?とか。
名前がついた時点でカルマ発動なのかな?とか。
意味づけの第一歩だなっとか考えてます。
意味づけしていくと前回の川に上っていく感じです。
意味づけを外していくことが川を下っていくように思えます。
でもこういう話は夫と黒斎さんくらいにしか話さないかな。
黒斎さんも一休さんも最高^^
私もいろいろばんばん外して身軽になろう~♪
僕も改まった挨拶とか、ありがとうもごめんなさいも子どもの頃から言えませんでした。今はそれでも意識的には言えるようになったほうですね。二児の父親ですが、長女(今年5年生)は僕似で愛想悪いです。長男(今年1年生)は嫁似で割と挨拶のできる子ですけど、僕も嫁もそんなに躾した覚えことはないんですね。生まれ持っての性質なんですかね?
僕は黒斎さんと同じ年でいい加減挨拶のできない大人ではいけないかなとも思うんですけど、なんかそれでもそういう風に考えるのも煩わしくなると言うのが正直な気持ちです。
でも、そのお坊さんが、凍死するよりその仏像を燃やされる方が遥かに辛い、と感じる方であったなら、むしろ一休さんが自分の価値観を押し付けたという話になりますね。
コクサイさんは、お坊さんが勝手に世俗的な解釈をしているだけだから、一休さんのしたことが正しいのだという意味(解釈)で、この例を出されたのですか?
それとも上のような意味ですか?
全てを尊重するなら、一休さんとお坊さん、両者を対等に見るべき話ですね。
記事とは、関係ないコメントですみません。
よく名もなき花とかっていわれる事に何故か
違和感を子供の頃から持ってて。
人間が、名前をつけなくてもその花は
ずっと存在してたのにという思いでした。
他人には、そんな事言った事はありません。
それでなくでも、かなり変人と言われてたのですから。(笑)
これからも明るい変人人生を楽しんでいきます。
「ある特定のコミュニティにおける常識を共有していない」という意味で、エキセントリックに映ることはあるかもしれませんね。
「特定のコミュニティにおける常識」を共有することが良いか悪いかはまた別の問題ですが、
「そのコミュニティにおける常識」が何なのかを理解し、そこに属する人が理解できる「言葉」で伝える方が、
ウィルさんもお話しているように、価値観の押し付けを極力減らしながらコミュニケーションをスムーズに進める一助になるような気はします。
失礼を承知で申し上げますが、
最近の黒斎さん、少々謙虚さを欠いていらっしゃるようにお見受けいたします。
あなたの常識は、読者の常識ですか?
その子は日本生活が三年になるのですが、電話などで祖国の友達と話していると、ときおり「ありがとう」「ごめんなさい」を言いたくなる流れがあったときについ言ってしまうと、相手から「なんでそんなこと言うんだよ」と言われてしまうそう。
たしかにその話を聞いたとき目から鱗でした。
世界は多面体なのですねぇ
自分の価値観に合った人の物言いには「自信にあふれている」と言い
自分の価値観に合わない人の物言いには「傲慢だ」と言う
解釈や価値観・常識に依存する限り、どこまで行ってもその繰り返しではないですか。
他にも、料理は残した方が良いとか悪いとか国や地域によって違いますね。日本は残さず食べるのが礼儀で「うまかった」の意味になりますが、残さないと「もてなしが足りなかった」という意味になる国もあります。
わたしもきょう、このメッセが
入ってきてブログに書いちゃいました♪
常識という枠を見直してみる。
当たり前と思ってることが本当か
いま 見直してみる。
大切ですね。ありがとう☆彡
すべてOKなのかしら…?
だけど、この世に生きながら「解釈や価値観・常識に依存」しない生き方ってどうすれば…。
インドの人は、本当の感謝や思いは言葉では伝えきれない事を感じているのだと思います。。
限界のある手段を使って、伝えてくださる
コクサイさんに頭がさがります。。
言葉そのものも大切ですが、それにお互いがどんな意味を持たせているか、それがもっと重要ですね。
私は「ありがとう」大好きですけどね^^
言うのも言われるのも。
「感謝を期待せずに与える事」のプロ集団ってわけですかい!
でも字面上の「ありがとう」がないだけで、
与える方も受け取る方も、双方ほっこりした気分でいるのはまず間違いないですよね。Cool。
某少年漫画で読んだ事のある台詞、
「もういちいち礼とか言わないからな。
だからもし今度逆にオレがお前を助けるようなことがあっても、
お前もオレにありがとうとか言うなよ。
友達が友達を助けるのは当然だろ。」
を地で行くような話でそのレベルの高さに脱帽です。
面白い話をありがとうございました。
全ては人が決めたこと。
善も悪も人が決めたこと。
目覚めたらそれが実感として分かるもんだよ。
批判などは気にせずに、ブログ書いて行ってくださいね(*´∀`)
(空の状態である時は、気になるも何もないでしょうけれどw)
目覚めてるわっぱちゃんより~。
東洋人と西洋人の物の考え方の違いについての実験も、答えがまったく間逆になって面白かったですね。
今、黒斎さんの本棚にもある「怒らないこと」を読んでいます。
その中にお釈迦様の運転手だったという、お釈迦様が出家するときからお世話をしている人が出てきますね。
お釈迦様が偉くなっていって、周りに尊者が多くなってきて、自分がお釈迦様から遠くなっていく様で寂しさと嫉妬のような感情を抱いていくあの感じって、最近のコメント欄に書かれているのとダブって見えます。
やっぱり、自分以外が悟っていくのをみて焦ってしまうんでしょうけど、その感覚はよくわかります。
でも、それが「自我」そのものですね。
それと、久しぶりに「僕のアニキは神様とお話ができます」のサイトを見てみたら閉鎖されてました。
脅迫を受けているらしいのですが、困ったひとはどこにでもいるモンです。
自分がそれにならない様、自戒します。
「人から嫌われる」という現象は、起こり得るのでしょうか?
コメントの一つ一つの中には、愛しかありません。
みなさん「交流したい」と思い、ここに来て、記事を読み、コメントを書いていらっしゃいます。そこに愛以外の何があるのでしょう?
批判的な気持ちでコメントを書いている方がいらしたとしても、そこには同じく、「つながりたい」「思い出したい」という愛から生まれた気持ちしかありません。
今は愛という言葉でしか表現出来ませんが、それ以外のものはありません。
よって「人から嫌われる」ということはあり得ません。
「人から嫌われる」という幻想を創ることはできますが、
どうして幻想を見て、みんなから離れるのでしょうか?
言葉や、文体に意味を与えすぎていませんか?
そこに見ているものの意味に、とらわれなくなれば、
誰にでも、その向こうにあるものが見えると思います。
他人に謙虚さを求めるのは、自分の心の抑圧された(自分も我慢して謙虚に生きてきたんだから、謙虚であるべき!)という自分を偽ってきた心があるという事なのではないかと。
でなければ、人に押し付けたりはしないですよね~。
一定の距離を保ち
疑問を持ち、自分と対話し、自分の直感を信じれば 他者に振り回されることもない。
コクサイさんのblogは
ツールなのに。読者から謙虚にと言われるコクサイさんがお気の毒です、、
私はコクサイさんの言葉
楽しみにしていますよ~
素敵だなと思ってしまいましたw。
くべる木が足りないと読んだとき
坊さんたちの袈裟を燃やすのかな?
でも後で寒くなってしまうよね。
すぐに燃え尽きちゃうよね。
っと思いました。
読み進めると
な~んだ、仏像か!頭良い!!
と思ってしまった私は不謹慎でしょうか。
とんちや洒落は真をついてる話が
多いと思うけどな~^^
お笑い万歳!!!洒落万歳!!!
こういう話を嫌う人が(結構?)いることに
軽くカルチャーショックです。
関西弁で笑いながら「まじめか!」って
言い合いたい^^
ここのみなさんは、解釈したり常識にとらわれたりせずに、リアルでも生活できてるんですね。
自分もいつかそうなれるかな。
当たり前のことをしているのに、御礼を言われると違和感が起こるのではないか?
もしかしたら、ありがとうを言われなければ納まらない日本人より、精神文化は上かもしれない。
目覚めを語る時、どの精神次元で語るかや見方(角度)を変えた時では、当然表現方法も変わってしまうね。
それをまた各々が自我と言うフィルターで解釈してしまう。
万人が受け入れられる教えなんてないのよねぇ。
どんなに素晴らしい師でも教えでもいつの時代も受け入れない人が居るのよね。
そしてそれが良いとか悪いでもないのよね。うん。
なんとなく本日2度目のコメント。
もういい年ですが、どうも子どもっぽいところがあって悪気なくスルーしがちなんです。
そんな自分は感謝の気持ちが足りない欠陥人間だとひそかにコンプレックスになっていました。
人付き合いでは「ありがとう」と言い忘れないよう緊張し、過ぎてからまた言い忘れたと落ち込んだり。
今回の記事を読んで、「ありがとうを言わなければならない」という考え方は多様な価値観のひとつに過ぎないと気づき、少しほっとしました。
このようなときはいつも、決まり事のように末尾に「ありがとうございます」とカキコしていましたが、今日はやめておきますね。
このことに気づいた今日くらいは、ありがとうを言わない自由を私に許したいので。
・・・・とここまで書くと、やっぱり「ありがとう」と言いたくなるのが人間の不思議。
黒斎さんありがとう。
わ~い言っちゃった♪自由って心地いい
結構ハマッテマス。
コメント欄も楽しみです。
それにしても言葉のコミュニケーションって、超ームズイなって思い知らされます。
なんかみんなで、想いの伝言ゲームをしてるみたいで、ちょっと楽しんでコメント欄を見させてもらってます。
元は同じ存在だしぃー
結局、自分に言っている事になるもん。なーー
唯物主義 刹那主義 利他主義 で居る限りそんなこと理解できるわけ無いか。
そして今日は嫌われちゃうかなって(笑)
言い切っちゃえばいいのにって思います^^
これは私の解釈で黒斎さんの考えと一致するかはわかりませんが書いてみます。
黒斎さんはありがとうに対する価値観の違いや一休さんの話を具体例として、常識や価値観・物事の解釈に絶対はないということを伝えたかっただけではないかと思います。
それは、常識や価値観・物事の解釈をすべて捨てろということではありません。
各々が「こうに違いない」と思い込んでることに対して「それだけじゃないんだよ~絶対なんてないんだよ。」と優しく教えようとしてくれているだけで。
常識や価値観は、ある程度共有しないとお互い社会で生きていく上で不自由が生じるでしょうし完全に捨てることなどできないでしょう。
ただそれらが絶対でないことを知り、執着しなければそれらに縛られ苦しまないで済みます。
常識や価値観の違いから争う必要もなくなります。
それだけの話ではないでしょうか。
タイミング、悪っ!
まあ、全ての事象は「ただあるだけ」ですから、どう受け取るかはその人次第ですよね(笑)
言葉ではなくチップで表せと言うことのようです。
7000
親しい間柄で
「謝謝」は言わないみたいです!
私は最初それが慣れなくて大変だったけど
そういう習慣というか、考え方に慣れていくと、逆に「いいな、素敵だな」と思いました。
文化は違えど
深いーーところで
私たちの心はつながっているような気がします~。だからこそ、私たちは、今後とも職場の同僚や隣人、家族、隣国などに対して…相互理解を生み出して、たくさんの幸せの花を咲かせましょうね!
ってブログ読んで思いましたよ☆
あ、卑屈くん発見w
そうだ、そうだ
誤解のないように補足の説明。
中国は親しい間柄で
「ありがとう」を言うとよそよそしい感じがするみたい。親しいからこそ「ありがとう」はいらないよ!みたいな。
それをどう思うかは、受け手次第だと思います。
世界番付の番組で果物を落として
どれくらいの人が拾ってくれるか実験してた。
もちろん日本が一位で、たくさんの人が果物拾ってくれました。
中国は最下位でした。
そういう実験の尺度が、私は悲しい。
拾わないから、優しくないのですか?拾うから優しいのですか?
文化が違うっていうのは思考、そこから発動される行動のパターンがちがう。つまり、考え方、やり方が違うだけ。
飛行機にのって、何層もの雲を抜けると
きれいな青空が広がっている。
文化や人間の心とはそういうものだと思います。
ある地域では、いつも雨。あちらではカラカラの晴れ。でも高い空では共通した美しい空。たくさんの表情を見せる天気つまり空。
地域によって空の表情が違うように、国や他者との違いは必ずがあって、それは時として摩擦を生み出すこともあるけど、
本来の私たちの優しさや温かな思いは、この空のようにつながっている。
摩擦が起きてる間は、摩擦のことしか考えられないけど
常に私たちは、この共通した青い大空に思いを馳せてお互いを理解していきたいです。
ちょっと長すぎた…
コメント掲載しなくて大丈夫です。
色々な考え方とか文化があって面白いですね!
うちは、ありがとうって、あんまり自然に言えない方なんで、意識的に言うようにしています。
ある意味、癖みたいな感じで。感謝の気持ちはあるんだけど、なんか意識的じゃなきゃ言えない感じです。
あとは『お願いします』とか『お疲れ様』とかも。
意識的でも、自分も言われて嬉しいからか、言うようにしているけど。
見返りを求めないで、人の為に当たり前にできるって素敵だな、と思うし、そうなれたら素晴らしいけど、うちは『ありがとう』って言葉あった方が良いなぁと思います。
そして、親切にした人が裁判で敗訴したとか。(爆汗)
だから、道端で倒れて苦しんでる人がいても、皆知らんぷりして通り過ぎて行くそーです。
恩を仇で返すお国柄なんだそうです、皆そうではないとは思いますが・・・。
又、中国人の観光客は、どこへ行ってもマナー悪いそうです。
でも、彼らにはそれが分からないのだと思います。(嗚呼)
インターネットのニュースに、最近載ってましたョ。
大好きだよ、大好きだよと気持ちを込めて。
けれども、申し訳ない気持ちでいうありがとうは確かに塩辛いかもしれないです。。。
一休さんのその話(元ネタは知りませんが)は、こういう解釈もできますよという意味では、コクサイさんの主旨に沿ったものでもあるはずです。
まあ、何か意見を提示すると排他運動が始まるのはいつものパターンなので仕方ないですね。
むしろ、前記事コメント欄の流れの方が珍しく感じましたし、普段これだけ賞賛受けているのに、これくらいの議論ですら受け付けないんだなぁと感じました。
まあ、何人かの方が言うようにコメントをあまり削除しないだけ良心的ですけどね。
で、改めてですが、人の数だけ解釈がある、という話と、世俗的な解釈より一休さんのような価値観フリーっぽいスタンスの方が優れているという話はイコールではないはずです。
現にコクサイさんは、人の数だけ解釈と意味付けがあると言いながら、川上がり(世間的スタンス)を否定して、川下りは正解とする、と思われてもおかしくない文体で書いているので、それこそ混乱ではないかと思う部分があります。
つまり、自分だけ例外になっているということです。
解釈の多様性という話は、コクサイさんに限らず、わりと世の中にある話なので、既にそれに対する疑問のようなものも出されています。
それが、解釈多様性を説く人は自分だけを例外としがち、という指摘です。
色々な解釈があるよね、という言い方は、多くの場合は相手側を肯定する場合に使われますが、実は否定にも使えます。
その場合、それはあなたの解釈だよ、とかいう感じの言い方になります。
ニュアンスとしては、所詮それはあなたの思い込み、みたいな感じです。
コクサイさんもこれですよね。
この場合は、相手を相対化しながらも「こいつ分かってないなぁ」と秘かに自分側を正解(絶対)としている場合が多く、やはり自分だけを例外としてしまっています。
つまり自己矛盾ですね。
もちろん私の意見も、その意味で一つの意見に過ぎないし正解とも言えないということになりますが、コメントを見ていると上のようなパターンになってしまっている方も多いのではないかなと感じます。
で、コクサイさんもこのパターンに陥ってないですか?と、色々と意見を述べていたのですが、なんかあまり手応えないですね。
あと、私がコクサイさん嫌ってるとか思われると、またコアなファンに責められそうなので、一応言い訳しときます。
正直会ったことないので好きとか嫌いとかないです(あ、言い訳になってないですね)。
ただ、一人の思想家、作家としては面白いと思いますし、ブログ記事も全て読んでます。
暇だったらサイン会にでも行こうかとちょっと思ってたくらいです(無理っぽいですが)。
しかし、当然ながらコクサイさんの話が完全だとは全然思いませんし、色々疑問も感じるのでコクサイさんの考えにも突っ込みを入れたくなることもあります。
あと川下り否定派でもありません。
むしろこれまで川下り理論の方がたくさん親しんできましたし。
でも、だからといって川上がりを否定することもないよね、という考えではあるので違和感は感じます。
まあ、でもとにかくコメントしても手応えがないなぁという感じですし、コアなファンから排除されそうになるし、コクサイさんも賞賛しか求めてない人物なら、やめた方がいいかなという気もしてきました。
でも、多分また何か言いたくなることあるかもしれないので、そうなったらすみません。
文化っていいですね。
多様性が認められることが豊かだとおもうし。。。。
日本語のありがとうは在り難いで語源はちがうのかも??
いずれにせよ私はありがとう、好きです。
お坊さんは一休さんの行動から、ただの木でしかないモノを仏だと思い込んでいた自分の思い込みに気付いたんですね~(´∀`)
あと新しい本、ランキング一位おめでとうございます。
悟りをひらくって別に喜びを抑える人の事じゃないと思います。
あるがまま現状に対して素直に喜怒哀楽を感じて残さない人じゃないかな?と何となくイメージしました。
禅のイメージですけど…。
どうでもいいですが、私は長らく呼吸がしにくくて困ってます。
心臓の辺りを押さえつけてるような息苦しさで呼吸しづらくなるのが頻発です。
ストレスなんでしょうけど。
深呼吸もやってみてるんですけどねぇ。
はー、早く呼吸だけでも楽になりたい~(´Д`)
まさにAha~!ですね。
そんな一休さんがとても好きです。
「依存できないものに依存しようとすること」が、苦しみを生み出します。
解釈に依存
価値観に依存
常識に依存
このように
何かに依存することで、自分の正しさを主張しようとしたり、心理的な安定・満足を確保しようとするところに葛藤が、争いが、苦が、生まれます。
ちなみに
ホントかどうかわかりませんが
「カルト(cult)の語源はカルチャー(culture)」
という説もあるようです。
カルチャー(文化)も、「ただその国に生まれた」というだけで、赤ん坊の意思に関わらず有無を言わさず刷り込まれる(洗脳される)もの。
という面からの発想かもしれません。
私たちは、自国の文化には「刷り込まれた」という自覚がない程に深く一体化してしまいます。
それはある意味、その国の価値観への「洗脳」と言えるのかもしれません。
当然、感謝を思い合っていることが前提だから、言葉で汚されたくないような・・・
愛の中での泳ぎ方はクロールも、バックも同じって感じ。
国によってはバタフライくらい激しい感情の応戦もあるかもいしれない。。。
そう感じました。おもしろい話をありがとうございます。
悟りや目覚めについて語るのは、それと同じ事で、言葉や文章で表現しきれるものではないし、黒斉さんの表現がしっくりこないなら、他の人の方の表現も見たらいかが?とそれだけのことです。
目覚めたものの望みは、「だれもが幸せになる事を望み、そうなるためのお手伝いがほんの少しでもできたらいいな。」ただそれだけです。
黒斉さん頑張ってくださいね^^
あぁ、なんか上手く言えない…。言葉にすると本当に上手く伝えられませんね(;^_^A
むずかしいっす
黒斎さん編集(←これ重要)…と、あったので阿部さんの本も、買ってみました(笑)
よっ!商売上手!
…いまは「奇跡の脳」を読んでいる途中です。
ちょうど最近、父も軽くあたったところだったので何かと参考になるかな~なんて思いつつ
一休さん、少年の頃はアニメの一休さんのイメージ強し。
年とった一休さんは偏屈ジジィのイメージですが、その頃の性格をまだ受け継いでいるって事なのかなぁ
私は結構な変人好きです
一休さんの例えも、大切な仏様ではあるけれど、元を正せば、ただの木であるという、とても当たり前の事への気づきのお話ですよね。
当たり前に「いまここ」にある、本当の自分に気がついたなら、どんな状況であれ、たちどころに貴方は幸せになれます。
しかも本当の自分に気がついたその瞬間思うことはは・・・
「な~んだ!」(笑)
↑たったこれだけです。
自我がしっかりしていて、もちろん思考もフル回転。
誰かのブログを読んだなら、自分の意見や考えがジャンジャン浮かんでくるな。
今日は何だか頭が冴えてるぞ!
↑こんな日は残念ながら、本当の自分に気づくことは出来ません。
地に足が着いてなければ、どんなにありがたいお言葉も机上の空論のような気がする。
目の前に広がる現実は、所詮エゴの思い込みが作り出した幻想で…って、ホンキでそう思えてる人がここにどれだけいるんだろうか?
現実=幻想が真実だとして、それを知ったからってホントにそれで生きていけるの?
ごまかしや目くらましで一生やってけるなら、それはそれで幸せだけど、ホントに納得してる?満足できてる?
あの世の仕組みに傾倒しすぎて、この世で生きることとのバランスを取れなくなる方が、私は怖い。
それを即物的だというなら、私はそれで構わない。
湧き上がる想いは止められない。(笑)
アメリカ人以外にもインド人や中国人などいろいろな人種のお友達がいます。
そういえば、あまり「ありがとう」と言われたことがないかも... 笑
去年、阿部さんとコクサイさんのブログを見つけて今では欠かさず読んでいます。
うーん、ためになるなー、と思うこともあれば、???と感じることもあります。
ウィルさんのように自分の意見を言える方は素晴らしいな、と思いました。
いろいろあって全て良い。
私はこういう話が好きです
こういう話が一番落ち着きます
でもやはりこの日本に生まれて良かったです
日本の文化が好きです
それはそれとして、本来は
「ありがとう」といわれたら「なにが?」という答えになるんだと思われます。それで、あなたがしてくれたから、ということを聞いて初めてムッとするのだと思います。
即座にムッとするということはありがとうといわれるかもしれないことをわかっていてやったということですよね。
どうして?興味深い内容ですよ。全然好きですよ。
そう言っていただけるととてもありがたいです。
個人的には、こういうスピ・コミュニティで意見を書くのは本当に難しいものだなと感じていたのですが、
そういう懐の深い方もいると思うとホッとしますね。
シナモンさんは、色々な国籍のお友達がいるんですね。
>「君がもし目覚めたいのなら、これからの人生で『ありがとう』と言ってはならない。そしてまた、言われてもいけない」
すぴりちゅあるを学んでいる者の常として、
私も結構「ありがとう」を言いまくっています。
人のしてくれたこと、有難いと思うと
自分も温かな気持ちになって気持ち良いし。
でも、そういう見方もあるんですよね!
自分が言うのはともかく、人に何かして「あげた」とき、
「ほーら、やってあげたんだよ、感謝しなさいよ、
私を良い人だと崇めろ、うりゃぁっ」
みたいなエゴの香りを自分で感じることがあります。
インドネシアだかどこだかでは、托鉢するお坊さんに
何か差し上げてもお礼は言われないのだそうです。
善行を「善行」と思って人に感謝をさせるようでは
まだまだ、ということなんですね。
そして、感謝をさせる、ということと、感謝をする、と
いうことはコインの裏返しのもので。
日本にいるから、その風習に従っておいた方が
方便として良いし、「感謝を表さない」というのは
エゴの文脈で読んではいけないことで、それはきっと
花にも風にも生きていることにもありがとう、と思う
ことと同じことなんだと思うけど。
うん、何言いたいか自分でも
分からなくなってきましたが。
良い記事だったと思います。
これで嫌われるかも、なんて、今どきの読者さんを
見くびってますよ~、黒斎さん。
だいじょーぶですって。
ただその言葉を日本語の「ありがとう」と訳し、日本人の一般的感覚と違うね~、と語るところに、異文化間(異言語間)コミュニケーションの難しさがあります。
たしかに現代では、「ありがとう」は感謝を伝える言葉として、いわばギブアンドテイク的に使われています。
だから、「あの人って、私がこんなにしてあげたのに、ありがとうの一言も無いのよー、ねえどう思う?」ってことにもなるんですが…
そもそも日本語の「ありがとう」は、「あり得ないこと」「存在し得ないこと」が起きたときに「有り難し」と使った「有り難い」から来ていて、神や仏などの大いなる何者かが、「有り得ないこと」を起こしてくれた場合に使った仏教由来の言葉。
元々『法句経』の「人の生を享くるは難くやがて死すべきもののいま生命あるは有り難し」
が原典であると言われています。
つまり「滅多になくて貴重」なことを授けてくれた神仏をほめたたえ、賞賛する言葉だったのが、室町以降感謝などの感慨を伴った言葉として使われるようになり、さらには近世以降、感謝を表す言葉として一般に広まった…
ですから日本語の「ありがとう」には、単に相手の親切な行為に対する答礼だけではない深い意味が含まれています。
昔年配の方がぶつぶつ「ありがたや、ありがたや」と自分に向かって、あるいは神仏に向かって(?)独り言のようにつぶやく場面に出会ったことがあります。
一見ちっぽけに見える自分という存在、しかしそれは神仏が与えたもうた類まれなる存在で、まさに奇跡。
それの何と有り難いことか。
感謝と帰依、そして喜び。
当たり前だと思っていた毎日が、実は当たり前ではなく、いかに有り難い日々の連続であったか、3.11で気づいた人も多かったのでは。
いまここに何事もなく存在している。
そして、そんな自分に何かしてくれる人がいる。
「ああ、有り難い事だ」と感歎の言葉を発する。
そんな言葉「ありがとう」に、相手からなんやかや言われる筋合いは有りませんよね。
それに「ありがとう」の言葉自体、同じ日本人同士でも、それをどういう意味で使い、どういう意味で受け取るかも違うでしょうし、というのもありますし…
最後は「非言語通信」しかない?
(私の言いたいこと、伝わってますかねえ…w)
ありがとうを言ったら、かえって来ない、その通りだと思います。
私は、それで、良いので、ありがとうは言ってます♪
後は、自己責任ですからね。
ありがとうございますd(⌒ー⌒)!
なんか自分が感謝が欲しくてやった
様な感覚になる。
行動を見ればわかるしね
『もともとアボリジニの人々の生活に相手に感謝の意を伝える習慣は無く、彼らの言語に「ありがとう」、「Thank you」に相当するものは存在しない。
勿論、全てのものを平等に分かち合ってきた彼らの文化には人に何かをあげる、何かを貰って嬉しい、という考え方が無い。それは「当然」で相手に感謝すべきことではないのだ・・・・・』そうです。
うん、凄いスッキリしました!
ひとかどのそれらしい「先生」達から、判で押したように言われる「他者への感謝が大事」と言う、紛れもない「正論」に感じ続けていた違和感。
その原因はこれだったのか!と、直感しました。
ホント、スッキリ爽やか!黒斎さん、ホントに「ありが・・・」
あれ?ヤッパ分かって無いのか?自分!
一ヶ月ちょい前に黒斎さんとこのブログを知り、最初から順に読み進め、本日やっとここまで辿り着きました。
リアルタイムに追いつくまでは、「いまどこ?」な気分です(笑)!