いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
家なき子
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
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今日は、精神世界でよく語られる「なにもせずとも、本当は皆はじめから悟っている」というキーワードについてお話を進めたいと思います。
「なにもせずとも、皆はじめから悟っている」とか「元から救われている」などと言われても、「はじめから悟っているのなら、わざわざ目覚めようとする必要はないではないか」だとか「最初から悟っているなら、いま目の前にある苦悩や不安はなんなのか。なぜ私は苦しみから逃れられないのか。」という、じれったい疑問が残ったままの方も多いのではないでしょうか。
結局のところ、目覚めを目指せばいいのか、目指していること自体がエゴの策略なのか。
そんな何とも煮え切らないパラドックスに、色々なマスターが色々なアプローチをしているわけですが…
(  ̄▽ ̄)ノ 『本日は、そんな話題を「家なき子」をベースに御説明します。』
( ̄д ̄; ) 「久々に登場したかと思えば、いつもの如く唐突な比喩をもちだしますね。」
(  ̄Д ̄) 『いいじゃん。だってわかりやすいんだもん。』
( ̄д ̄; ) 「それにしても、家なき子かよ…なんなのよ、その微妙な古さ。」
(  ̄Д ̄) 『いいからいいから。さ、説明を進めて。』
…
若い世代の皆様はピンとこないかもしれませんが…いまから15年前のこと。
野島伸司さん脚本、安達祐実さん(当時13歳)主演で、「家なき子」というテレビドラマが放映されました。
酒乱の父(内藤剛志)と病弱な母(田中好子)を両親にもつ不遇な家庭環境に生きる少女、相沢すず(安達祐実)の苦悩を描いた、ドロドロの悲劇。
劇中の名セリフ「同情するなら金をくれ」が新語・流行語大賞に選ばれるほどのブームとなりました。
父に暴行され、家を失い、学校では虐められ、犯罪に手を染め…と、それはそれは悲惨な人生を辿る悲劇のヒロイン、相沢すず。
この物語を、エックハルト・トールさんが言うところの「自己同一化がもたらす機能不全」と合わせて考えてみます。
もし、この役を演じていた安達祐実さんが、演技に没頭するあまり、本来の自分をすっかり忘れ、自分の事を「相沢すず」だと思っていたら、大変な事が起こります。
「安達祐実」であるはずの自分が「相沢すず」として生きているのですから、そこに「機能不全」が起こります。
ドラマの舞台設定を「現実」だと勘違いしていたら、その思考や行動は、自分の中にある「すず」という人物設定を通して行われることになるので、「すずの苦悩」を「自分の苦悩」として感じ、苦しむことになります。
このとき、仮に自分を「相沢すず(自我・架空のキャラクター)」だと勘違いしているとしても、本当は「なにもせずとも、はじめから安達祐実(真我)」です。
そんな状況から、「ああ!私は相沢すずじゃない!安達祐実だったんだ!」と、本来の自分を思い出せば、例え同じ舞台に立っているとしても、その苦悩は「架空の物語上で描かれている世界」であることが明確にわかっているので、「苦しみ」はなくなり、「苦しんでいるすずを演じている」という自覚だけが残ることになります。
それと同時に「家なき子」という狭い世界から抜け出て、「ああ!わたしが演じられるのは相沢すずだけじゃない!この役も一時的なもの。過ぎ去っていく運命。わたしはこの先、“ガラスの仮面”の北島マヤにだって、“ゴーストハンター早紀”の安部早紀にだって、“大奥”の和宮にだって、“アンパンマン”のドーリィにだってなれるのよ!」と、広大な世界と自由を見出します。
「安達祐実であることを忘れ、相沢すずとして苦しんでいる姿」と「相沢すずを演じ、苦しみを表現する安達祐実」は、傍から見れば同じように見えてしまいますが、本人の意識は全くの別物です。
「家なき子」の撮影中は、ドラマの中での「苦しみ」は相変わらず「苦しみ」のままですが、その性質は、自分が安達祐実であることを思いだした以前・以後ではまったく違うモノです。
この様な例えでお話すると、とても馬鹿馬鹿しく見えるかもしれませんが、悲しいかな、そんな馬鹿馬鹿しさに気づかずにいるのが人間です。
自分の経歴や肩書き、生活環境、人間関係など、自分を取り巻く環境や要素によって「自分」という人物設定を築き上げ、本当の自分を忘れてその役を演じています。
ある人は「母」を、ある人は「社長」を、ある人は「学生」を演じ、脚本のない、完全アドリブの舞台に立っています。
「自分」と「役柄」を切り分け、何も演じていない素の自分を思い出すことが「目覚め」と言われるものです。
目覚めや悟りと言われる経験を通して見つけるものは「聖人君子となった自分」ではなく、「素の自分」です。
「目覚め」に対して、何か特定のイメージを持ち、そのイメージに向けて自分を高めていく努力を行っているのだとしたら、それはエゴの策略に嵌っています。
そのイメージは「素の自分」ではなく、「エゴが望む次の役」だからです。
そうではなく、自分が今どんな役を演じているのかを見抜き、日常的に行っている自己演出・セルフプロデュースに気付き、それを踏まえて役を降りることを目指しているのであれば、それは目覚めのプロセスとなりえます。
(  ̄Д ̄) 『相沢すずが新たな役柄を思い描くのではなく、相沢すずという役から離れ、安達祐実に帰って行く試みが、「瞑想」といわれるものです。』
なんだろう、この例え… (-公-;)
←数日更新出来ずにいたら、このざまです。「同情するなら押してくれ」
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今日は、精神世界でよく語られる「なにもせずとも、本当は皆はじめから悟っている」というキーワードについてお話を進めたいと思います。
「なにもせずとも、皆はじめから悟っている」とか「元から救われている」などと言われても、「はじめから悟っているのなら、わざわざ目覚めようとする必要はないではないか」だとか「最初から悟っているなら、いま目の前にある苦悩や不安はなんなのか。なぜ私は苦しみから逃れられないのか。」という、じれったい疑問が残ったままの方も多いのではないでしょうか。
結局のところ、目覚めを目指せばいいのか、目指していること自体がエゴの策略なのか。
そんな何とも煮え切らないパラドックスに、色々なマスターが色々なアプローチをしているわけですが…
(  ̄▽ ̄)ノ 『本日は、そんな話題を「家なき子」をベースに御説明します。』
( ̄д ̄; ) 「久々に登場したかと思えば、いつもの如く唐突な比喩をもちだしますね。」
(  ̄Д ̄) 『いいじゃん。だってわかりやすいんだもん。』
( ̄д ̄; ) 「それにしても、家なき子かよ…なんなのよ、その微妙な古さ。」
(  ̄Д ̄) 『いいからいいから。さ、説明を進めて。』
…
若い世代の皆様はピンとこないかもしれませんが…いまから15年前のこと。
野島伸司さん脚本、安達祐実さん(当時13歳)主演で、「家なき子」というテレビドラマが放映されました。
酒乱の父(内藤剛志)と病弱な母(田中好子)を両親にもつ不遇な家庭環境に生きる少女、相沢すず(安達祐実)の苦悩を描いた、ドロドロの悲劇。
劇中の名セリフ「同情するなら金をくれ」が新語・流行語大賞に選ばれるほどのブームとなりました。
父に暴行され、家を失い、学校では虐められ、犯罪に手を染め…と、それはそれは悲惨な人生を辿る悲劇のヒロイン、相沢すず。
この物語を、エックハルト・トールさんが言うところの「自己同一化がもたらす機能不全」と合わせて考えてみます。
もし、この役を演じていた安達祐実さんが、演技に没頭するあまり、本来の自分をすっかり忘れ、自分の事を「相沢すず」だと思っていたら、大変な事が起こります。
「安達祐実」であるはずの自分が「相沢すず」として生きているのですから、そこに「機能不全」が起こります。
ドラマの舞台設定を「現実」だと勘違いしていたら、その思考や行動は、自分の中にある「すず」という人物設定を通して行われることになるので、「すずの苦悩」を「自分の苦悩」として感じ、苦しむことになります。
このとき、仮に自分を「相沢すず(自我・架空のキャラクター)」だと勘違いしているとしても、本当は「なにもせずとも、はじめから安達祐実(真我)」です。
そんな状況から、「ああ!私は相沢すずじゃない!安達祐実だったんだ!」と、本来の自分を思い出せば、例え同じ舞台に立っているとしても、その苦悩は「架空の物語上で描かれている世界」であることが明確にわかっているので、「苦しみ」はなくなり、「苦しんでいるすずを演じている」という自覚だけが残ることになります。
それと同時に「家なき子」という狭い世界から抜け出て、「ああ!わたしが演じられるのは相沢すずだけじゃない!この役も一時的なもの。過ぎ去っていく運命。わたしはこの先、“ガラスの仮面”の北島マヤにだって、“ゴーストハンター早紀”の安部早紀にだって、“大奥”の和宮にだって、“アンパンマン”のドーリィにだってなれるのよ!」と、広大な世界と自由を見出します。
「安達祐実であることを忘れ、相沢すずとして苦しんでいる姿」と「相沢すずを演じ、苦しみを表現する安達祐実」は、傍から見れば同じように見えてしまいますが、本人の意識は全くの別物です。
「家なき子」の撮影中は、ドラマの中での「苦しみ」は相変わらず「苦しみ」のままですが、その性質は、自分が安達祐実であることを思いだした以前・以後ではまったく違うモノです。
この様な例えでお話すると、とても馬鹿馬鹿しく見えるかもしれませんが、悲しいかな、そんな馬鹿馬鹿しさに気づかずにいるのが人間です。
自分の経歴や肩書き、生活環境、人間関係など、自分を取り巻く環境や要素によって「自分」という人物設定を築き上げ、本当の自分を忘れてその役を演じています。
ある人は「母」を、ある人は「社長」を、ある人は「学生」を演じ、脚本のない、完全アドリブの舞台に立っています。
「自分」と「役柄」を切り分け、何も演じていない素の自分を思い出すことが「目覚め」と言われるものです。
目覚めや悟りと言われる経験を通して見つけるものは「聖人君子となった自分」ではなく、「素の自分」です。
「目覚め」に対して、何か特定のイメージを持ち、そのイメージに向けて自分を高めていく努力を行っているのだとしたら、それはエゴの策略に嵌っています。
そのイメージは「素の自分」ではなく、「エゴが望む次の役」だからです。
そうではなく、自分が今どんな役を演じているのかを見抜き、日常的に行っている自己演出・セルフプロデュースに気付き、それを踏まえて役を降りることを目指しているのであれば、それは目覚めのプロセスとなりえます。
(  ̄Д ̄) 『相沢すずが新たな役柄を思い描くのではなく、相沢すずという役から離れ、安達祐実に帰って行く試みが、「瞑想」といわれるものです。』
なんだろう、この例え… (-公-;)
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コメント ( 67 ) | Trackback ( )
« 夢が叶う日 | 耳をすませば » |
瞑想についてもすっきり
しました。
ありがとうございます。
ちなみに頭の中のBGMは
中島みゆきです(´・ω・`)
頭では理解できるけど、意識で理解できない。
瞑想を励んで、思考を止め、心をクリーンにしていけば
だれでも、ある一点を超えた所で自動的に目覚めはおきるんでしょうか?
最近、深く瞑想する事ができるようになって来たのですが
現実の三次元舞台に戻った時、エゴちゃんが
「こんなこといくらやったって、時間の無駄だよ。」
って、言って来る事があり、あせってしまいます。
これって、すでに覚醒体験を追い求めてますよね。
作り上げたイメージではない素の自分、早く思い出したいですね。
お金のために演じているのか、生きるために演じているのか、何でこの世では皆さん演じていらっしゃる必要があるのでしょうか?
それが、本来ならばいらない物(エゴ)なのでしょうか?
人の事を例えにするのではなくって、黒斎さんの事がどうしてどうなってどうやってどういう結果でこうなったのかを、1から10まで説明して欲しい気が個人的にはします。
演じている時の自分と、演じていない時の自分の差がいかなものか、良く分かりません。
実際体験した方の体験談から聞いてみたいものが個人的にはします。
>「同情するなら押してくれ」
同情はしないけど(笑)押しましたっ!(>Д<)ゝ”イエッサ!!
↑Unknownさん、役柄と一体になっているときは「演じている」ことすら分からないんです。
それが「無意識」といわれる状態です。
エゴによる「自動操縦装置」で動いているようなもので、「自覚がない」「自分を第三者的に見られない」のが特徴です。
(自己防衛、自己保身のカタマリになってますネ)
で、ふいに「自分の思考」に気付いたり、「自分が今怒っている」ことに気付いたりすることがありますが、それが「本当の自分(安達裕実)」なんです。
役柄と一体になっているときは、気付くことすらできないんですね。
本来の自分で在るときは「意識的」です。
何をするにもちゃんと「自覚がある」ってことですネ。
ただ、自分に当て嵌めてみると
病気の苦しみや痛みを演じてる自分が瞑想=素の自分に帰る事を
邪魔をしている様にしか感じられません(-.-;)
痛ければ瞑想に集中すら出来ないですし…
それもまたそれも役割を演じていることになるのか…
難しい…
何かすごい僧侶がやっていそうな。
実際、何も考えない。って難しいと想いますし。
ある時、瞑想って何も考えないって事は何も視ないってことでもあるよな~。なんて思っていたら、ひらめいたんですが、私的には
妄想=空想=瞑想
なんじゃないか?ってね。
黒斎さんが好きなエロ妄想も
クラーク博士が勧める空想も
阿部さんが大好きな瞑想も
質が違うだけで、その世界に行っている時は、目が開いていても目の前が視えていないと想います。
14歳くらい(最近だと低年齢化してると想いますが)から、楽しい空想をしだしたり、好きな娘のハダカを妄想したり。
その頃からすでに瞑想の訓練が始まっているように想えています。
で、ずっとずっと考えて考えて、考え疲れた時に、フッと考えるのを止める(手放してみる)と、あら不思議、瞑想状態になっちゃってます。
ずっと考え続けた疲れから解放されるのですから、気持ちいいのも想像できそうですよね~(*^-^*)
ですのでエロ妄想から・・・・
もとい、
楽しい空想から初めてみるのが良いのかな?と思っています。
悪い考えが浮かんで来たら(不安や懐疑心など)楽しい空想で埋め尽くしちゃえばいいんですよね。
で、空想に疲れたら、フッと気を抜いてみる(リラックス)
そのまましばらく呆けてみる。(考えるのを止める)
こんなんで良いんじゃないかな~。最初は。
・・・
と、思った次第ですわ。⌒゜(σ,σ)゜⌒
また、思考を止めるということと、呆ける事も違います。
>悪い考えが浮かんで来たら(不安や懐疑心など)楽しい空想で埋め尽くしちゃえばいいんですよね。
その方法は、結局ネガとポジという二元性の世界の堂々巡りを繰り返すだけです。
いや…言わんとしていることは分かるんですよ。
もそっと…こう…なんというか…
やっぱり私は落ちこぼれです_| ̄|○il|li
背伸びしてつま先立ちで足がつりそうな自分じゃなくて
漬物石が頭の上に乗ってる圧縮されてる自分じゃなくて
らしくいられる自分が一番楽ですものね。
日に何度も伸び縮みしてはいますけど・・・(汗)
ありがとうございました。
「夢中でドラマを見てて、そのドラマの中に入り込んだような状態が自己欺瞞の世界で、ドラマが終って我に返った状態が目覚めだ」という説明と、
「目が覚めたほうが人生をイキイキと楽しめる」という説明が…こう…一致しないんです。
のめりこんで見てるほうがドラマは面白いじゃないですか。
半分「ああこれ、ドラマね」って醒めて見てるのって、面白くなくないですか?
夢中になるために記憶を消して生まれてくるんじゃないかなって気もして、それなら目覚めてしまうのは何かのエラー状態なんじゃないの?とか…
そんなふうに思ってしまうんです。
どうなんでしょうか…
去年の夏に、こういうことをやったことがあります。
いろいろあってしんどくて、
「あーもう何もしたくないっ!!!」と思って、
でも現実に「何もしない」なんて無理だから、考え抜いたあげく、
「そーだ、心だけ何もしないでいよう」と決め、
ある1日を過ごしました。
すると、不思議なことが起こりました。
家族と過ごし、家事をしたり人としゃべったり、
普通に笑ったり冗談言ったりしている”私”がそこにいて、
「何もしない」”もう一人の私”がそれを観察しているんです。
(わ、わかります??
感情も思考もある”私”と、ただ見ている”私”がいる・・。
で、前者の私を後者の私はすごく愛しく見守っているんです。
そのときに初めて、前者の私は日々あれこれ悩むことはあるものの、
「いただいた役割」を深く愛していることにも気づきました。
(そういう前者の私に、後者の私が気づいたという意味)
それから何だか、生きるのが楽になりました。
苦しみも悲しみもやってくるけど、
「あぁ、苦しんでるなぁ」「しんどいよなぁ、私」と、
もう一人の私がわかってくれているんです。
(2重人格とかじゃないですよ~
全てが輝いて云々、というようなものすごい至福の体験じゃありませんでしたが、
これも目覚めに近いのでしょうか?
ものすごーく淡々と起こった出来事で、
それ以来ずっとこの状態なんですが・・・
妄想や観念に逃避するのをやめて、今という唯一の現実を生きる。それが、役割を降りるということ。
ふと思ったのですが、真我もまた演じていると言う事は無いのでしょうか?
すず→ゆみ→真我→??
ふと思いました。
もし可能なら取り上げて頂けると幸いです。
どうするんでしょう、私は全部くっいて動いてしまうのですが?
家無き子い=ゆみ=私 から 離れられない
もう~~~ どっぷりと浸かって 私が楽しんでいるのでしょうか? ぎゃ~~
「こうすればいい」という明確な方法論はないんです。ごめんなさい
↑で便宜上使った(というか、最初は自分も”心”だと思った)”心”という言葉は、
普通は感情や思考を伴ったものですものね。
感情や思考はそのままそこにあったんですよ、そのとき(前者の私の中に)。
そしていざ「何もしない」というのをやってみたら、
そういう私とは別に、「存在するだけ」の私がいたんです。
最初からいたんですけど、いることに気づいてなかったんですね。
また、「気づいた」というのも心の一つの動きですが、
あえて言葉にするとそうなった、という感じで
元々わかっていたことを提示してくれた、という方が近いかもです。
わかりにくくてすみません・・・
>物語に溺れていたら、現実を生きて味わうことができない
この「現実」っていうのは何なんでしょう?
私が今、この役をもらってこの世に生まれてきた以上、今はこの「役」が唯一の現実に思えるんですが…
leafさんのおっしゃる状態で言うと(またまた名指しですみません!)、その「自分を愛おしく見ているもう一人の自分」は、起こっている事実ではなく、現実に直面している自分を見ているということですよね?
ならばこの世に生まれ、この世で起こることをそのまま味わってはいないように思えるわけで、それが「世界が美しく見える」っていうのはなんか違うと思ってしまうんですよね…
数年前、ちょっとショックな出来事がありまして、
その時にあまりに辛かったので、自分の感情を離れることにしました。
悲しいことが起こるたびに、すっとその自分から離れて、「ああ悲しいよね、そりゃそうだよね」って外から見ている感じになりました(と言っても、それは自分の意思でやってるので、leafさんのおっしゃってる状態とは違うんでしょうが)、
その時、私は確かに楽だったけど、きちんと悲しみ、きちんと怒り、きちんと苦しみきってないまま、時が過ぎていったような感じで…
その出来事が過ぎて、平穏が戻ってきた今、あの時の感覚は一種逃げだったと思っています。
そのせいで、私は役割として客観視するということをちゃんと理解できないのでしょうか。
なんか一人ごとの疑問ばっかりつらねてしまってすみません。
違っても何でもいいんですよう。
失敗も、してみなけりゃ解らないものですしね。
入門編としてのとっかかりとしては、私はそれくらい軽い気持ちで入った方が良いと想いますの。
で、うまくいったら儲けもの。
気楽すぎます?
勉強嫌いな子に勉強しろっていうのは逆効果だと想いますので~。
黒斎さんは本当に真面目な方なのですね(*^-^*)
私もまだまだ勉強させて下さいね~♪
東京コラボライブでお会いできるのを楽しみにしていますよ~♪
私は自分でもなぜそういう状態になったのかがわからないので、
今まで誰にも言わないできたんです。
黒斎さんは「目覚めたら絶対にわかる」ようなことをおっしゃってましたし、
そうじゃないのかもしれないと思っているうちはそうじゃないのかも、と。
ただ今回の記事を拝見してみると、近い部分もあるような気がして
ちょっと書いてみようかと思ったのです。
ちなみに感情については
「よりしっかりと味わう」ようになった気がしています。
でも、いつまでもその感情に振り回されず、
落ち着いた状態に戻りやすくなったというか・・・。
なので、感情から目をそらしているというのでもないようなんです。
(なんでこう他人事みたいな言い方になっちゃうのか。。。)
ホントに個人的な体験なもので、理解しづらいと思います。
表現が至らなくて申し訳ないです{/
本で読んだのしか知らない。
レミじゃなくてユミかよ…
普通、人が使う現実という言葉には、独自の解釈や、その時点では思考に過ぎないものが多く含まれています。それは厳密に言って現実ではない……。
ちなみに黒斎氏によると、目覚めた方が感情をクリアに、ありのままに体験できるのだそうです。
目覚めに近づくほどより「本当に生きる」ことができるのではないでしょうか。
目覚めてない私の意見なのでどこまであたっているかわかりませんが……
また、感情から逃げずに味わうことも、役割やアレコレの思考をいったん脇に置いておく必要があります。
余計なことを考えず、素の自分でいてはじめて、そのままの感情と向き合えるんです。
感情と向き合おうとしている時に、役割(思考・解釈・固定観念・立場などで成り立っている)に溺れていては、感情そのものに正面から向き合えないのではないでしょうか。
数年前に悲しい体験をされたということですが、例えば、その体験について「私はなんて可哀相なんだろう」「他の人はこんな目に合わないのに」などと考えて「思考の紡ぐ物語」を作ってしまったら、その体験をそのまま味わっているのではなく、自ら不純物を混ぜてしまっています。
解釈しないことで、はじめてそのままの現実を生きられるんです。
演じて居る事になりますねェ~~
しかし人間の存在の本質は完全、完璧なんですってよ
私は怒っている時に、怒っている自分の姿を、
「あー、怒ってるなー」と静かに観察しているもう一人の自分がいます。
この観察している自分が、安達祐美にあたるのかな?
だからと言って、怒りがおさまるわけではないのですが…。
次々と降りつづいてたことに気づきました。
本当の自分を忘れ、理想の自分を作り出す
ことの無意味さも「これでもかっ?」というほど
味わわせてもらいました。
もう「何者にもなる必要なはない」ことが
本当に十分にわかりましたっ!
私は今のままで完璧ですっ!
だから、もうこれ以上降ってこないで。。ほしい~の
いつも勉強になります。
ありがとうございます。
かなり前ですが、“爆笑問題のニッポンの教養”で「科学的分身の術」というタイトルで実に興味深い話をやってました。↓
http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/20080108.html
この番組を見たとき、背筋が思わず血走り(どんな例えや・・・)『やっぱこれやがな!!!』と叫んでしまったことを今もハッキリ記憶しております。
この世はほんまに良く出来た“ばーちゃるりあいりてぃわーるど”なんかいなと・・・。
そしてこの体を通してインプットした情報を脳味噌アンテナを通してどっかと交信してる???
ほんまウッキッキーですね。
その交信元が実はひとつだなんて・・・
上出来の瞑想後(⇒いちおう座禅を毎朝組んでます。)に感じることですが、掃除をして気持ちええなぁ!!というのと一緒ちゃいますか?
ps.同情せんけど押したった。
でも「自分」は一人じゃない
「自分」の中にはいつも「他人」(の思い)が流れ込んでくるし
「他人」の中にはいつも「自分」(の思い)が流れ込んでいく
酔っぱでヤニ吸いな上に禿げのボキャブラリと
イメージはこんなところですが何かっ。
(誰に問いかけてるのか・・・w)
懐かしいし、楽しいし、わっかりやすいし!
やっぱりスゴイなぁ♪
若い世代でないので(笑)「家なき子」がっつり観てました☆
わんこの名前なんだっけな?
活躍したんですよね~ U・▽・U ノ〃 ブンブン
さわらさんの解説もいっつも的確で気持ちよいです
あと、私もLeafさんと同じ状態です σ(・▽・ )ワカル~♪
ポチっとな。
毎日押すようにしてるのに、忘れちゃう時もある…
ごめんねっ ( ̄▽ ̄)
黒斎さんの事すげぇ!とか思いつつ、俗っぽさがある所が人間臭くて大好きです(←褒めてるんです、えぇ。
えーと、今回のこのテーマ、解り易いけど、でもひっかかるよーな…って思ってて。
でも、ま、いっか、どーせ俺、まだ目覚めきれねwwとか思ってほっといたんですね(爆)
でね、さっきふと…
私、電子部品の製造の仕事した事があるんですけど。
とどのつまり、うちらICチップみたいなもん?と。
えと、つまり、パソコンとかに使う部品、フラッシュメモリとかって(この辺なんかごちゃごちゃ種類あるんで、名称とかはさくっと省きます)まずマイクロチップに電子回路とか色々描かれて、プログラミングされて、パッケージ(外装)されて、そのICチップが基盤に取付けられ…
用途は様々ですが、そうやって製品になっていくじゃないですか。
でね、そのマイクロチップも元を辿るとシリコンていう一つの素材から出来る。
多分、素の自分、ていうのは、何も加工されない、ただの素材としての、(物質としての)シリコンの状態?って。
…言ってる事、解り難かったらすみませんorz
細かく説明しちゃうととても長くなるしケータイだし、で拙い文章になってしまう…(汗)どうしよう…゜。・(ノд`)・゜・。
でも、私の中の解釈はこんな感じで(汗)
LSIとか詳しい人、援護頼む(爆)
乱筆乱文失礼しました。
引き続き楽しく読ませてもらいます~♪
ではでは
人間の苦しみを引き起こす 感情や思考はなぜ 人間に与えられたのでしょうか? 大きな存在に気がついた人々は 感情や思考が苦しみを引き起こす原因でああることを よく知っていて その苦しみからの解決法が瞑想であることはよくわかりました。では なぜ 人間だけに 感情や思考が与えられたのか ということが まだ判りません。 大いなる存在(宇宙)が必要としているものなのでしょうか? それこそ人間の存在意義は そこ(感情や思考をコントロールして精進する)にあるのでしょうか?
わかっていただける方がいてホッとしました。
ありがとうございます。
なかなか上手く言葉で説明するのが難しくて・・・
↑の「もう一人の私」は「私」と表現していますが、
「個」ではないんです。
「個」を感じるのは普段地道に生活して
喜怒哀楽を味わっている「私」の方です。
で、見ている方の私は「みんなと同じ」なんです。
なので「あ、これ、他のみんなも持ってるじゃん」と思いました。
そのときの感覚を例えでいうと、
「赤」という色の概念がない人に赤い色がどういう色なのか
言葉を尽くしてもなかなかわかりにくいですが、
実際に赤い色を見せてみたら瞬時に「これが赤か」とわかる。
そういう状態でした。
圧倒的な恍惚や至福とは違う体験だったので、
(でもじんわりと心が温かくなりました
「どうなんだろう?」とずっと疑問符がついていたんですが、
同じような方がおられた、ということで
少し気持ちが落ち着きました
たしかに、この世には法則がありますよね。
色々な立場や役割の人がいて、それらが皆協力して製品=世界になっているって感覚。
たった一個のICが壊れただけでも製品は故障してしまいますね。
・・・
生物はみんな細胞で出来ていますね。(例えのシリコンって意味ですね)
物質は原子で出来ていますね。(例えのシリコンって意味ですね)
原子は・・・波動?電磁波?かな?素粒子の学問世界で解明しようと努力が続いていますね。頑張って!学者さま!
で、意識ってこの次元を上げて行っても、どの次元でも有るのかな?と。
(次元を上げると細かくなっていきます。下げると物質に)
生物の意識、物質の意識、波動の意識(←神意識?)
あると想います!
この間、黒斎さんが無料のTED?を紹介して下さいまして、ちょろっと気になる所を観たんですね。
その中で、細菌の会話のおはなしがありました。
細菌は化学物質で会話を成立させているっておはなし。
これが納得できたのなら、言葉だけが会話の手段では無くって、他の方法もあるんじゃないの?って想えませんか?
イルカ等のエコーとか、海の中に伝わる波動で会話したりとか。
大気中だと、コウモリの超音波とか?
私たちTV屋だと電波で伝えています。TV放送がそうなんですね。今までは一方的でしたが、デジタル時代に入ってから相互通信も可能になりました。
ネット社会が同じような形態を以前より確立していて、それに習った感じですね。
・・・・・
なんか話がだーいぶそれてしまいましたが・・・
今まで知らないことがまだまだこの世には有って、もし、それが出てきても否定したりせず、「そんなこともあるのね~」くらいで受け止めてみる事が大事なのかな~。
で、それの意味を考えてみる。
私は、解らないことがあっても、それを主張する人のなかで、主張するからにはその人の「正しい」という想いが必ずあって、それを主張しているはずだからって考えるんですね。
それを見つけようと心掛けています。
それが見つかれば、その人を理解することに繋がります。
誰でも、その人それぞれの「想い」が有るはずですからね(*^-^*)
こんな言葉を伝えます。
反省無くして、感謝無し
感謝無くして、許し無し
許し無くして、反省無し
3つが出来たら愛(理解)に近づく
どうでしょう?
わかりやすかったです。
思わず、その勢いで、ぽちっと押しちゃいました。
「同情するなら押してくれ。」いいですね~~
素の自分、本質の自分はただ在るだけ。
現実の肉体を持った私は色々な現実を体験しているだけ・・・。
だからこの世で言われる良い、悪いの2元論の世界ではなく、それらも包括した第三の道を意識し続ける私。
肉体の私と本当の私、ただこの世で使い分けるだけ・・・。
それがジワジワと判った時点から確信に生まれ変わりました。何が有ってもOK!
肉体を脱ぐまでのこの世の人生大いに楽しみます。
それにしても雲黒斎さんの表現は面白いナ~~~!
あー。なんか、トイストーリーのバズライトイヤーもそうかも。
なんか、子供の遊びって、なりきる遊び、多いですよね。あれって、なりきってるって自覚があるから楽しいのかも。ちゃんと戻る場所があるというか。
大人になるとなりきり過ぎて、なりきってる自覚も無くなって、楽しくなくなるのかもしれないですね。
他の方が言葉をつくして説明してくださったのに、うーん…?っていまひとつ納得しきれませんでした(すみません!)
でも、今コタさんのコメントを読んですかっとしました。
なるほど、そうですね!
返って行く「自分」があるから楽しめるんですね。
ああ~本当にそうです。
すっきりしたところで仕事に戻ります(汗
leafさんもうひひさんも、丁寧に説明してくださってありがとうございました!
コタさんのコメントであ~、なるほど、と思えたのも、おふたりの説明を読んだからこそ、という気がします。
どうもありがとうございます。
かのシェイクスピアが言った、
『世界は舞台であり、人間はその役者にすぎない。』
という言葉は僕らに向けたアドバイスだったのですね。
というわけで、僕はこれから先
世界中の人々に愛されるすてきな人間を
優雅に演じてゆきたいと思います♪
紛れも無い現実だと思いこんじゃったら楽しむどころじゃ……。
覚者の余裕は、現実を現実でないと知っていることから生まれるのかも。
そう、そんな感じなのかなーって思って…
しかも私より深い考察!なんか技術者らしいですね(笑)
私なんかは色々細かく考えると何か怖くなっちゃってやめちゃったのに(笑)
「伝える手段」に関しての話、とても興味深いです!
有難うございましたm(__)m
すごいたとえですね。
雲さんの「説教」が何かの形で後世に残るとして、「家なき子の喩え」・・考えただけでも笑えます^m^
無料の範囲内だけでも結構な発見があった気がしました。
こんにちは~^^
最近悲劇の主人公やりすぎ・・・・。
『私らしくない』降りようと思っています。
自分にしっくりこない役だから、まだ、役として楽しめない。
でも、目指すのは大女優。入れ込んでいながらも演じていることを忘れないような。
最後の「同情するなら押してくれ」に笑いました。^^
そうそう、黒斎さん、
私も、スティーブさんに、プロモーションに協力していただき、街に天使の看板を用意してくれたり、絵を飾ってもらいましたよ♪ 笑
⇒ http://naomiangel.exblog.jp/11912564/
水→舞台 息継ぎ→本当の世界
ゴールしたら、もう息継ぎしなくていいね♪
が、役を降りることを目指すためには
具体的にどうしたらいいのでしょうか?
って考えることがもうすでに
ダメ?
具体的に何をしたらいいのかが
わかりません。
瞑想すること?
>具体的にどうしたらいいのでしょうか?
…えーとですね。
それがそのまま先日お話した「素顔のままで」というお話に繋がるのですが、どうでしょう、ご理解いただけますか?
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/c5e265b27dde6fe582ab2260a4196453
いったい何の意味があってこんなことをしているんでしょう
疲れている時は特にですね。
でも、そんな時は自分が「美しい」と思うものに囲まれたり思い出すだけで少し癒されます(私の場合ね)。
自然に触れるもよし、好きな写真を見るもよし、音楽を聞くもよし、映画を見るも漫画を読むもよし。
その時に「何でこれを美しいと思うんだろう・・・」
と思いをはせると少しなんだか気持ちがポジティブな方向に。
美しさを感じることのできる自分に感謝です。
いかが お過ごしですか?(寝てます。by黒斎、他)
お休みになるとウッカリ忘れちゃうことも多いし(えへっ)
日付変わったので、さっきポチっと押しときました!
同情でなく愛情で♪
黒斎さん、長生きしてね(笑)
Leafさん、LOHASUさん、コメントありがとうございました!
お二人と同じような状態でいられること、
とっても嬉しく感じています♪
Leafさんは、阿部にぃのブログで江原さんの記事の時、
かなりナイスなコメントをされていて、
感心していたら、黒斎さんが「その通り!まいった!」
って風なコメントをしてたのをよく覚えてます
Leafさんは、説明がとってもお上手ですネ♪
LOHASUさんはガンを克服された方でしたよね?
(私の記憶ちがいでしたらごめんなさい)
阿部にぃが講演の時に、「特別な(?)エネルギーを感じて、後でお話を聞いたら、
ガンを患ったことがあるそうで、
そういう方は…(以下略←うまくおこせません
とコメント欄に書かれていたのを覚えています☆
LOHASUさん、素敵な方だなぁと私も感じました♪
今はお身体、大丈夫ですか?
LOHASUさんのご健康をお祈りします
では、寝ます (・◇・)ノ
こないだ、お祭りに行ってきたんですよね、お面がずらーっと並べてあって、子供のころは、お面つけるのが楽しかったなって思いながら眺めていました。その時にふっと思ったんですよね。
私たちは知らず知らずお面コレクションが増えすぎたのかもしれないですね。
今、引っ越しの作業中で部屋のかたずけをしているんですが、まー、物の多いこと、多いこと。
どこに何があるのかさえ分からない位です。なんか、部屋を見てたら自分を見ているみたいで。どこに何があるのか分からないから、また買い足す。悪循環ですねぇ。
増やすことより、減らすこと。必要な物を必要な時に出せるように整理整頓することだなって痛感してます。いつ、何を出すのかを私たちは選べる。瞑想ってそういうことだなーって感じました。
部屋も頭の中も、散らかったまんまじゃ、取り出せるものも選べないというか、意識的ではなく、反射的になってしまう。反射的だと楽しみも味わいも半減ですよね、
リアルワールド、よりリアルに感じるってそういう意味だなぁって感じます。
はさみは10個もいらないでしょ!って思いながら片づけてたら面白くなってきました。
そもそも、必要な物は既にありました。欲しいものって必要な物じゃないんですよね。
取り込む。取り出せる。両方を選べるでした。
黒斎さんの本棚みたいですね。
自分のあり方で自分の本棚に何を置くか。
これが一番大切なことなのかもしれないですね。
後は閲覧自由なので、私の本棚から貴方がどんな本を選ぶか、何を思うかは自由です・・・・、って事かぁ。
あー。このブログの一番初めに戻っちゃったような・・・。最初からそうなのか・・・・。
っと、休日の合図とともに元気になった私です♪
黒斎さんのこの記事は、私にとってベストタイミングの内容でした♪
何の役もなく何の役でもやれるんだな~としみじみ思います(^-^)
いつもありがとうございます♪
あっ、ポチ!は、最近忘れずに押してますよー♪
英単語に対して「覚えようとする自分」と「覚えさせ
まいとする自分」が喧嘩を始めるのです
すこし進むと心配になり又初めから覚え直しで
今でも3分間ものを覚えていられない意識障害者
なのです。
今までのどんな説明よりも納得できました。ありがとうございました。
それに、Leafさん、素敵ですね。
こちらも、とっても良く分かりますよ。
コクサイさんは、間違った解釈をされないように、いろんな表現で、伝えて下さっているのですから。
ってどれですか?
僕にはちょっと分かりませんでした。
教えてください。
役を降りるためには
↓
化粧をやめる
素顔になる
ということですが、
言っている事はわかります。
でも「何もしない」というのは
日々の生活では具体的にどうしたらいいのでしょう?
人と比べない
人の評価を気にしない
ということでしょうか?
化粧を落として素顔で生きるっていうと、
自分の好き勝手にしてしまう気がします。
考えていくとループに入ってしまいます。
わからない人間はダメってことですかね?
少し前の記事ですけど、
この家なき子の話を読んですごく楽に
なったというか、すごく納得できたし、
こういう視点で観ていていなかった
ことに気づきました
くだらなそうな話が一番役にたったりね、、、
たとえ話はいつも解りやすくて
大好きなんです
この世で楽に生きていきたいだけなんだけど、
道はたくさんあるんですよね
でも究極は全て同じ。
どれがつぼにハマるかって話なんだなって
この記事読んで思いました
なんなんだろう、このサイトは。
本日はじめて入室いたしました。
この例え、私にとって新鮮でした。
こんなシンプルでわかりやすい「目覚め」の解説は初めてです。
気楽な感じもほっとできます☆
私は、「次の役柄」を求めていただけなのかも・・・
役は早く降りたいものです。
また読ませていただきに来ますね^^
楽しかったです。ありがとうございました。
すごく分かりやすい説明で、感動です~!
分かってる方は、大人にも、子供にも
分かるように話せるものなんでしょうね!!
有難うございます~!!^0^/
判りやすく大変素晴らしく思います。
もう時効だと思うのですが、一つお聞き致します。
≪自分の経歴や肩書き、生活環境、人間関係など、自分を取り巻く環境や要素によって「自分」という人物設定を築き上げ、
本当の自分を忘れてその役を演じています。≫
これはつまり、演技しているのを忘れて、その行為に同化している事だと思うのですが。
対策として一番良いのは、生活行為を辞めれば良いのかも知れませんが、この世で生きていくには、環境に応対していかねばならないと思います。
だから、自分として生きていくしか無いのだと思います。
勝手に自分以外として生きていく事は叶わないのだと思います。
行為自体が、宇宙という全体を奏でている運命だと思う次第です。
だから、逆らう訳にはいかないのだと思います。
ゆえに、仰るように演技していることに気が付けば良いのかもです。
でも、気が付くには・・・
演技していると気付くには、役者としての自分(本当の自分)を自覚せねばならない訳でしょう。
つまり、目覚めて初めて気が付くというか、気がついた時が目覚の時なのだと思えるわけです。
(上手く言えないので解り辛いかもです。)
で、何をお聞きしたいかと言いますと。
≪相沢すずが新たな役柄を思い描くのではなく、相沢すずという役から離れ、安達祐実に帰って行く試みが、「瞑想」といわれるものです。≫
同じ意味で単なる言葉のアヤかも知れませんが、相沢すずという役を降りなくても、「自分がそれを演技しているのだ」という意識(自我!?)を保ちながら相沢すずを演じて行くなら、それもまた瞑想(黙想!?)ということに成るのでしょうか?
おバカな質問ですいません(汗)
無視されちゃっても結構ですョ。
カテゴリー別に、全部読み進めている所です。
とても、わかりやすい内容で、スッと入ってきました。ありがとうございます!
究極の体験をしたわけではないのですが、エゴを観察している事が出来る様になり、
その場その場気づいた時点で、エゴ物語から、手を引いています。
最近では、とくに願わなくても、パッと考えた事が起こってくる様に感じています。
質問なのですが、
願い(と言う表現もおかしいのですが…)が出てきた場合、どうなされているのでしょうか?
放っておくのでしょうか?
自作自演の現実の中で、色々経験したい!と、思ってしまう、未熟者な質問です
ブログの更新を楽しみにしています!
「皆はじめから悟っている」のパラドックスにハマってた人間です(/_;)/
色々読み回ってようやく合点がいった(T_T)
難しい表現が多くて困り果ててたところでした(結局自分次第なのもわかってたのですが)
自我(エゴ)を本当の自分だと思い込んでいるまではわかっていましたが、「皆はじめから悟っている」に対して「は?どういうこと?わかるようでわからない‥喉に骨が引っかかってるみたいにすっきりしない、いったいどういうことなんだー‥(-_-#)」ってなってましたがようやく理解できました(T_T)
明確でわかりやすい例え有り難うございます(*^o^*)
すご~~~~~い!!!!!!
めっちゃ、分かりやすいです。
例えが天才的ですね~~~~~
いやあ、よく分かりました。
だけど、そこにハマっていると都合いいというかハマっていたいというか、抜けるの怖いというか、そんな自分もいるんですよね~^^;
自分の役割を考えてみたら、すご~い沢山あって演じていて愕然としています。
どうなっているのか
演じているということを思い出したい。
役を見抜きたい。
役から自分に帰りたい。還りたい。
なもんで、今日も励みます!!!
瞑想を~
有難うございました☆