沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩488 検証 27 抵抗の持続

2013年10月24日 23時54分23秒 | 政治論

 日本国本土と言われる内地から外地島嶼、琉球弧状に移住した者が、この地で恐らく初めてはっきりと思い知らされたことは、ここが16世紀、17世紀時に日本国と交渉を持ってから、鹿児島、薩摩藩島津家により王府にとって屈辱的な服属関係に陥ったとき以来、一貫して封建制度とその遺制によって日本国の政治的差別的施策の唯一の国内対象として存在させられた歴史を持ち、近代化以降、この国の爬行性と軌を一にして偏頗な同化策と皇民化教育により、いよいよ同一国内植民地的様相を帯び、沖縄戦を経てこの地を支配し占領した「解放者」アメリカ合衆国の、次第に強行される軍事的政治的支配傾向に反攻し「祖国復帰」と銘打った島ぐるみ運動により、ついに成就した日本国憲法下平等性の確保という「沖縄返還」であったが、その内実は「核付き」米軍基地存続、日米地位協定の治外法権下、アメリカの自治州並み軍事的植民地に成り下がったということであった。しかも日米安保の堅持と対米交渉官僚の怠慢により、あらゆる沖縄的矛盾、不条理状態が無反省にこの国の政治的慣例となり、いかなる変革、革新、改革的試行も全て必ず米国国家安全保障策に則り潰される、ということも明白になった。百年河清を待つ愚は犯すまい。彼等(本土の政府、日本人、官僚)はこの地の人間の声に耳を傾ける可能性はない。この現実的絶望状態をはっきり見据え、日米政府共謀して襲いかかる非人道的な種々の行為を徹底的に差し止め抵抗し、座り込みをつづけることだ。(つづく)


詩488 検証 26 人民の敵

2013年10月24日 09時49分17秒 | 政治論

 先ず判然と言える事は、琉球にあっては、過去の事歴、政府対応、米国国家安全保障策、日米同盟の経緯、から、日米同盟(日米安保)そのものにNOといっているのであり、その骨子はこの同盟が軍事的な協約だからであり、それは明らかに憲法に違背し、自衛隊含め戦後米国一辺倒施策による米国系世界観に牛耳られた傀儡的国策に陥っている日本政府ひいてはこれに盲従する日本人の怯惰にして自堕落な傾向に対し異を唱えているのである。こうした傾向からくる米軍基地の有り様が、74%を押し付けられた琉球人を刺激して止まないのは当然だ(日米安保の担保物件が集中するこの地の民意が、日米安保に対する正確な正当な輿論であろう。90%以上反対している事実に表れている)。普天間飛行場が何処に行こうが知ったことじゃないが、同じ不如意を引き受けることになる地元民を思い量れば、到底それを同じ国の民に、あるいは同じ人類の誰彼に無作為に押し付けることはできない。従って基本的には「県外移設」でなく「全面無条件撤去」が本筋であり、「辺野古移設」など初めから問題外だ。米国の軍産複合軍需主体経済主義そのものが、人民の敵と言える。(つづく)


詩488 検証 25 汚れた手

2013年10月24日 06時56分45秒 | 政治論

 我々自身の中に巣食うであろう、我々を、あるいは他者を不遇の境涯に落とし込む作用として認知される邪悪なあるいは見かけ尋常な、不変の怯惰、無知無関心、不勉強からくる根拠の無い過信、奇妙な油断、などは、しばしば我々を不本意で不如意な悪の牙城に閉じ込め、我知らずエゴに落ち他者を追い落とし、彼等を死苦に至らしめている。と、考えるべき必要性を痛感させるのは、この地、他国の軍隊とその係累が何食わぬ顔で巣食っている琉球の地に住み、この国の政府官僚たちが繰り出すありとあらゆる手練手管に見え隠れする彼等の「汚れた手」に気が付かされる体験を通してである。(つづく)


詩488 検証 24の7

2013年10月23日 10時20分15秒 | 政治論

 アーモン・ゲートが、知人と談笑中急に思い立ったようにバルコニーに走り、既にそこにいつでも用意されている銃を持つと、収容者の一人を理由無く狙撃する。収容者....ユダヤ人、ジプシー、などの「絶滅」すべき人種に属する人々の一人がその場に崩折れると引返して何事も無かったかのように談笑を続ける。これをケスラーは「スポーツ」と呼んだが、このスポーツ的殺人ゲームを繰り返した人間に目を凝らすと、彼の鈍化した人間性よりも彼をそのような行為に導いた元凶たるナチズム(第三帝国とアーリア人優越主義)を想起せざるを得ない。同様に、ヒトラーという怪物が国家社会主義に取付かれ第一次大戦で疲弊した母国ドイツの国家再建を目論み、ユダヤ系共産主義者カール・マルクスが分析検証総合した資本主義の堕落を読み取りかつ無産者革命を企図する共産主義自体を憎悪し、理屈抜きの雄たけびを上げて軍国的恐怖国家へ誘った、今で言えば明らかな「狂気」に楔をぶち込む必要性に気が付く。一方、アーモン・ゲートのような機械的無反省な仕事人間かあるいはあらゆる人間的な弱さ、物欲、我欲、執着、に支配された獣的な存在は、我々の周辺あるいは我々自身のなかに、到底払拭できない永続性においてあり続ける滓(おり)のようなものであり、そこら中に蔓延するそれらから目を背けることはできないのだ。(つづく)


詩488 検証 24の6

2013年10月22日 18時18分17秒 | 政治論

 死は生の一部でありその逆も言える。しかも死は永遠的(永遠ではない)だ。あらゆる死にまつわる物語、伝承、創作、は全て「見てきたような」嘘でありそれについては何一つ実証されてない(臨死体験は死ではないし、あるいは現実の死でさえない)。従って、死は無かもしれない、というのが最もそれらしく聞こえる。つまり死ねば何もない、「夢も希望もない」のだと。天国も地獄もない、従って未練も口惜しさも喜び、悲しみもあるはずがない。大体が「在る」ということはどういうことか。もし死が「無い」ということなら生は「在る」、つまり「全て」、かもしれない。生が全て、だとすればそれは生の可能性を無限大に夢見ることになる。生の可能性とは...それは不可能を可能にすること、生きている限り、生き続ける限り何が可能か予測できないということ、ここに生の無限旋律がある。確かに人はいやでも死ぬまでは生き続けるのであって、生が全体だとする根拠もそこにある。何故人は死を生の一部だといい、その逆に生は死の一部だと言ったのか。誰しも永遠に生きることが無いかわりに誰でも永久に死に得るという事実が、こう言わせたのだ。しかし生は絶えず死と共に在る。従って、自殺も殺人も両者(生と死)に相わたる方法であり、意思がこれを瞬間的に可能にする(誤って殺すこともあるが)。(つづく)


詩488 検証 24の5

2013年10月22日 08時59分35秒 | 政治論

 麻原彰晃以下オウム真理教関係者の行為の犯罪性は既に司直の判断を経て確定しているのだろうが、ある傾向にある少年犯罪に関わる者が発する「何故人殺しはやってならないのか」という問いに対する真面目な答え方を未だに目にしたためしはない。「真面目な答え方」というのは、この殺人者が手にかけた実際の人殺しが目の前にあろうがなかろうが、一瞬でもこうした疑問に対し身に覚えがあるということで彼(答える者)が考える時間を無際限に用意することになる、ということだ。池田小児童殺傷事件の犯人にしろ同じような他の殺人者にしろ、彼等に共通する主張は、進んで「死刑になる」ことであり、死刑になるために殺すのだ、という。彼等は殺人の対価が死刑だと認知しているが、人間的禁止行為だとは思っていない(と思われる)。だが彼等の中に「何故殺してはいけないのか」という問いへの答えがあったことはなく、「誰でもいいから殺したかった」という見返りのない衝動性が誇張され、さながら無差別テロの様相を帯びてくる、つまりこの殺意にはその背景に無意識に「社会への憤懣」が浮き彫りされることになる。彼(殺人者)が何と言い、思おうが、周辺はこの異常行為を単に異常性格で片付けず必ずその社会的背景の存在において取りざたする。理由は?原因は?と、この問いを発した時点で事件は大雑把な「社会」というものに放り出される。しかし殺人は実に個人的個別的な行為ではないか。ある共通性にばかり目を向けると事件の真相が闇に葬られ、永久に迷宮入りとなる、結果として「何故殺してはいけないか」と問うものが必ず現れるわけだ。(つづく)


詩488 検証 24の4

2013年10月21日 10時28分09秒 | 政治論

 再び。ナチスドイツ、プアシュア強制収容所所長で親衛隊大尉アーモン・ゲートの娘モニカ・ゲート(現在68歳、対話当時57歳)とマティアス・ケスラーのインタビュー形式の対話(2002年、2日間にわたる)にあって、ケスラーの巧みなインタビュー手法により、モニカのなかの深層心理にある(彼女の生い立ち、境遇、母親はじめ係累とその関係する他人、あるいは彼女の性格性質からくる)自己責任倍加傾向(自虐傾向)を正確に炙り出し、彼女と殺人者で父であるアーモンの明確な区別、峻別を外科手術のメスのように彼女のなかに見事に成就させた。その父の娘であるゆえに負う責任というものは基本的にはない(我々戦後世代が中国、韓国、北朝鮮、あるいはアジア一般に対し我々の父祖たちが起こしたあの戦争の責任を負う必然性は原則ない)。しかし、だからといってその父の犯した類まれな大量殺人という卑劣な犯罪行為を、如何なる理由においても決して許すことはないし、決して許されはしない(その立場は結局その殺人の被害者、被害者遺族にしかあり得ないし、彼等の立場からは当然の対応でしかない)という状況について変更はない。一方、アーモン・ゲートという「性格異常者」は最も一般的にあらゆる犯罪者に共通の傾向によって説明される。ここでは彼が父であろうが他人であろうが、一切の言い訳は通用しないし(時代、環境、上層部、上官、あるいは一切の外面的な理由をつけての言い訳)、この説明の成り立った瞬間に彼は「絞首刑」を免れない一般的な犯罪者に振り分けられる。つまり、その人間的な情状に即した物欲、出世欲、名誉欲、など、で説明されるし、又基本的なマニアックな嗜好、殺人快楽、享楽傾向、怠惰などで個別化される。あらゆる犯罪に共通する課題と共にひとつの明白な犯罪として人類の名によって告発される。最終的に、娘は父の犯罪を憎み、告発し、絞首刑にする(それを肯定し、社会と意を共有して断罪する)が、彼女の人間性はこの父から「贖罪」の遺産を引き継ぎ、彼女の人生を静かに歩き出す。ということ。(我々の父祖が犯した戦争における罪過を世界とともに断罪し、我々の戦後をその意味において歩き出す。)(つづく)


詩488 検証 24の3

2013年10月21日 06時48分10秒 | 政治論

 つまりそれは例えば、琉球島嶼が故知らず負わされたこの国の掃き溜めのような運命に関するこの国の本土といわれる主役たちが我知らず持っている無関心、あるいは根拠のない優越感、境遇に関する怯惰な安堵感(そのための「対岸の火事」的なニヒリズム)などは、例えば同じような立場ならこの島嶼人にも当て嵌まる、当て嵌まりうる単純な心理的「河童の川流れ」、としてたち現れるようなものだ。(つづく)


詩488 検証 24の2

2013年10月20日 21時17分04秒 | 政治論

 我々は、この、ある人間たちによって計画され実行されたホロコーストを、例えばフランクルの「夜と霧」やアンネ・フランクの「日記」あるいは夥しい数の記録、論評、告発によってしばしば眼にし耳にするし、その周辺や関係者、被害者、生存者、加害者の係累、などの陳述証言を聞かされたりするのだが、このケスラーの、モニカ・ゲートとの実験的対話のような、人間の本質に迫る掘り下げ方でアプローチしたものに出会うことは少ない。それは例えばドストエフスキーの諸作にみるような迫力で生々しく読者に問いかけてくる。訳者はその締めくくりにこれを、親子の心情に関わるありきたりだが特殊な表徴のように受け止めたらしいが、果たしてそのように読むべきものだろうか。例えば「罪と罰」のリアリズムは、我々を実に多くの心理的ドラマ性の名シーンに誘うが、そこから見えてくるのは興味深々なドラマの筋立てではなく、作者によって鋭く洞察された、人間のなかの「善悪の彼岸」めいた複雑さであり、その現実性だ。我々のうちにあるナチ的なもの、つまりはあらゆる罪過の根源たる煩悩、傲慢、怯惰、無関心、に気づかされる、という時間の必要性であろう。(つづく)


詩488 検証 24の1

2013年10月19日 19時45分10秒 | 政治論

 ある人種の、此の世からの完全な抹消という国家計画があって、そのとおりこれを実行し、同時に別なある人種の優越性を第三帝国なる世界制覇において証明してみせるという、殺戮と侵略、独占と君臨を旨とする圧倒的なヒロイズムに我と我が軍、兵士、人民、閣僚たち、女たちを引きずり込み巻き込んで、最後はど派手なロケット花火の燃え尽きた落下物のように、惨めに惨たらしく醜く滅び去ったナチズムというもの。ヒトラーの遺体が発見されてない事情から、このナチズムはその出現とその醜悪さの暴露が余りに凄まじかった反動のように、その後もモサドの執拗な追及の手が彼等の犯罪を食いちぎろうと世界の隅々にのばされているにも関わらず、ネオナチと称して本国ドイツにおいてさえなお不思議な実勢力を醸し出そうとする。つまりそれは、未だにある傾向の人間群にあっては、さながらそれが人類の不変な要求であるかのように、魅了し続けているという証拠だ。「シンドラーのリスト」に出てくるオスカル・シンドラーと彼の奇妙な知人、ルート・イレーネ・カルダー、そして彼女の恐るべき夫、アーモン・ゲートと彼等の娘モニカ・ゲートにまつわる、驚くべき対話がマティアス・ケスラーによりモニカ・ゲートとのインタビュー形式で実録されたのを、2008年に翻訳出版したものが手許にある。この「それでも私は父を愛さざるを得ないのです」と銘打った訳本の、「私」がモニカ・ゲートであり「父」がかの残虐な殺人者アーモン・ゲートだが、プアシュフ強制収容所付け自宅のバルコニーからある種の弱者を見つけては銃で狙い撃ちするという行為を臆面もなく繰り返した異常性格者だ。その殺人数実に10000人(単独共犯含め)に上る。戦後まもなく絞首刑になるが、一方その娘モニカにとってアーモンは父でしかなかったし、しかも愛すべき人だった!!。彼女とケスラーのインタビュー対話は、多岐にわたり詳細かつ大胆な内容になっている。(つづく) 


詩488 検証 23 ジャーナリズム

2013年10月19日 08時50分20秒 | 政治論

 政府機能の停止事態を招来した米国議会での民主共和両党確執は、ギリギリまで追い込んだ債務不履行危機の負の効果によって、この国の信用失墜を意味するということよりも、この国の国家的な凋落傾向を意味する大きな歴史的潮流を見せられたというのがより本質的であり、その限りでは現今安倍政権が目論む一切の対米追随国策の外交的錯誤を指摘しないわけには行かない。恐らくは、「積極的平和主義」の根本は日米軍事同盟としての「日米安保」体制であり、これの強化としての「集団的自衛権」容認であり、パクスアメリカーナ化した国際情勢における「国際貢献」にほかならず、全てはそこに集約される。この目論見の危険性は、勿論、日本国が国際的な紛争に軍事的に巻き込まれるということ、と、米国軍産複合戦争経済主義に則った米国国家エゴイズムの片棒を担いだ結果として自身の国家的自律性を完全に喪失することになり、以降アジアにおいてはその「平和主義」の根本理念が疑われその軍国化姿勢を敵視され、一種の経済封鎖さえ懸念される事態もありえないことではない、といったところにある。問題はこうした安倍政権の戦前回帰が、多くの場合時代錯誤に陥る傾向にあるということに誰も気が付かず、マスコミマスメデアはじめ論壇、ジャーナリズムさえ巻き込んで翼賛化することである。とりわけ大新聞、NHKの最近の「右傾化」は目を覆うものがある。彼等は彼等のジャーナリズム精神が、ジャーナリストとしてまことに不甲斐ない有様を呈していることに気が付かねばならない。(つづく)


詩488 検証 22 翼賛

2013年10月18日 11時09分35秒 | 政治論

 下村博文文科相は、八重山地区教科書一本化不履行に関し、竹富町教委が中学公民教科書を育鵬社版のそれでなく東京書籍のものにつき寄付金で配布した措置は所謂教科書無償措置規定に反するとして県教委に是正要求を指示する方針を固めた。問題は教育行政法との齟齬だが、実際は育鵬社教科書の内容として、県民の輿論に逆行する傾向にあることが根本にある。更に問題は、民主政権時不問に付していたこれを今になって表面化し、竹富町教委に国家的圧力をかけてきたことだ。そこにみられる安倍政権の本質的ナショナリズムの強権的実力行使傾向は今後徐々に明白になるだろうと思われ、多数決原理と世論の食い違いからくる政権のごり押しが様々な局面に越権的に起きてくるのは眼に見えている。(つづく)


詩488 検証 21 老病死

2013年10月18日 07時23分46秒 | 政治論

 自身の老齢化に直面したとき人は概ね二つの選択肢において晩年の社会的な生存方法を模索する。ひとつは、老人会、老人クラブの類には一切関わらず、「老齢を理由に集合することの行政的社会的囲い込み」に異議を唱え、行政が高齢者として支援補助する企てには賛同するも団体的にこれを享受することには原則参加しない。もうひとつは、殆どの地域集合催事には参加し、かつ行政的な支援事業にも進んで帯同しつつ、老人会老人クラブの会員となりその行動をこれらに連結させる。大概の老人は後者に属し前者のような「偏屈」は大目に見られても余り喜ばれない。しかしそこに不自由はない。縛りもない。この老人にあっては内面の自由が問題なのだが、一方老人会老人クラブの活動を否定する気はなく、ただ「老齢」を括りとして集結することに反発を感じるだけだ。ここでいう「老齢」「老人」という括りは、60歳を境に徐々に65歳あたりから感じられるようになり、ほぼ「停年」「年金受給」などと連動する。何があるか。社会的な「出世間」性が個人の中でプッツリと切られ、その先に一種の「孤立感」がうすぼんやりと見えてくる。当然病気、衰弱、死が予感される。つまり「人生」の究極的な概念化を進行させるわけだ。釈迦の説法にはこの「老病死」が此の世の「苦」であり、それに付随する様々な苦悩煩悶確執罪過が人の生の実相だとする。このことを悟れば此の世に迷妄をもって未練を残すことは意味のないことになり、「色即是空空即是色」をもって認識(覚醒)となり、悟達に至る。この悟りが凡人に容易に訪れないことはわかりきっているので、人は孤立を恐れ、塊に身を投げ出す。(つづく)


詩488 検証 20

2013年10月17日 10時25分09秒 | 政治論

 オスプレイ24機(昨年12機今年12機と倍増したわけだ)を沖縄県宜野湾市普天間飛行場に完全配備しながら、そこから飛び立って何日か他県で訓練しまたぞろ普天間飛行場に戻り駐機し、それとは別に同様の訓練を、飛行ルールを無視した方法と時間帯を含めまさに人口密集地帯の頭上を通常飛行訓練の回数を増やしながら同時進行させているというのが現在の、ありのままのオスプレイに関する米軍展開である。つまり、彼等日本政府の言う「負担軽減」という虚言は、「負担倍増」というのが真相だという今日の琉球新報社説だ。この、日米合作戦争屋の大嘘吐きどもの言をまともに聞いていると頭がおかしくなるのは筆者だけではあるまい。事程左様に福島原発汚染水問題への安倍晋三の「コントロールされている」という虚言もまた、これを聞く日本人の頭を混乱させる性質にある。(つづく)


詩488 検証 19 高江

2013年10月17日 07時16分28秒 | 政治論

 沖縄県国頭郡国頭村、及び東村(他に大宜味村もある)をまたいだ所謂「やんばる(山原)」と言われる地域を覆っている亜熱帯樹林帯に、米軍北部訓練場が展開し、現在もジャングル訓練が行われつつ、所謂「一部返還」に伴う代替ヘリパッド建設(例によって代替施設でなく新たな施設の強化的設置にほかならない....この、沖縄県民を愚弄する欺瞞に満ちた米国植民地政策は是が非でも糾弾されなければならない)が6基予定されていて内1基が既に強行完成し、現在2基目の建設が目論まれている。高江地区の住民、有志による監視抗議活動と「座り込み」によって、この建設現場に立ち入ろうとする丸政工務店の行動は本gooブログ「海鳴りの島から」(目取真俊氏ブログ)内「高江の様子」に詳しいが、どうやら非常に「怪しい」動きを繰り返しているようで、先ごろ県知事の沖縄防衛局に対するオスプレイ含みの自己「環境アセス」やり直し命令が出されたことが効いたらしい。同じウチナンチュでありながらの、この建設会社の行動は実に奇怪にして不愉快だが、知事命令に服さない沖縄防衛局の封建遺制的な対応を瞥見すると、この国がいかに狂っているかわかろうというものだ。当然この出先がこうした愚行を恥じない理由は、この国の政府防衛省官僚が相も変わらず執り続けている「対米追随」保守絶対主義によっている。(つづく)