沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩488 検証 16 画一主義

2013年10月13日 07時57分24秒 | 政治論

 琉球処分により琉球史の本筋を地方の一王藩に格付けし、維新後の処分を見做し藩から大日本帝国の中の一地方自治体としての県単位に定置したのち、国と県あるいは琉球自体が狂ったように本土並み同化策に奔走した。教育者、マスコミ、あるいは琉球人自身が競うようにこの同化の急先鋒となって、それまでの独自性をかなぐり捨て、「一般的日本人」を目指してさながら肉体から肉付きの被き(かずき)を剥ぐように「日本人」になろうとした。その根本が島ことば(クトゥバ)、ウチナーグチ(沖縄方言)の放棄、あるいは禁止、標準語への「民族移動」であり、「方言札」に代表的な無残な仕打ちであった。しかしながら琉球語を静かに見聞きしていると気がつくのだが、この「方言」の基本は日本古来の言語、つまりは古代語そのものだということだ。音韻の籠もり口に独自性がみられそこに方言性があるにしろ、むしろ正統な日本語の流れが見られ、どちらかといえば現代日本語こそ、この琉球語に学ぶべきところがあるとさえ思えてくる。芥川賞作家東峰夫氏の「オキナワの少年」では、こうした傾向への肩入れでウチナー口に漢字熟字をはめ込む方法が取られているが、面白い試みではある。アキサミヨーが呆気(あっけ)サミヨーとルビ振られたのは蓋し圧巻である。当て字ではあるが意味は通じる。逆に目取真俊氏のいくつかの作品ではルビでなくウチナー口そのものと標準文字を併置する方法が取られている。そもそも標準語なんてのは本土人でさえ正確には了解されてない代物で、エスペラント語など誰も必要としないように、日々の生活には決してなくてならないものでもない。国際連合という諸国間提携なんざ根も葉もないママゴトだということは誰でも知っているように、およそ全体主義に通じる統一的施策は実質性に乏しくかつ危険な画一主義に陥るのが一般の実情であった。皇民化教育の実践はまさしくこの言語の標準化、画一化によって助長された。(つづく)