自身の老齢化に直面したとき人は概ね二つの選択肢において晩年の社会的な生存方法を模索する。ひとつは、老人会、老人クラブの類には一切関わらず、「老齢を理由に集合することの行政的社会的囲い込み」に異議を唱え、行政が高齢者として支援補助する企てには賛同するも団体的にこれを享受することには原則参加しない。もうひとつは、殆どの地域集合催事には参加し、かつ行政的な支援事業にも進んで帯同しつつ、老人会老人クラブの会員となりその行動をこれらに連結させる。大概の老人は後者に属し前者のような「偏屈」は大目に見られても余り喜ばれない。しかしそこに不自由はない。縛りもない。この老人にあっては内面の自由が問題なのだが、一方老人会老人クラブの活動を否定する気はなく、ただ「老齢」を括りとして集結することに反発を感じるだけだ。ここでいう「老齢」「老人」という括りは、60歳を境に徐々に65歳あたりから感じられるようになり、ほぼ「停年」「年金受給」などと連動する。何があるか。社会的な「出世間」性が個人の中でプッツリと切られ、その先に一種の「孤立感」がうすぼんやりと見えてくる。当然病気、衰弱、死が予感される。つまり「人生」の究極的な概念化を進行させるわけだ。釈迦の説法にはこの「老病死」が此の世の「苦」であり、それに付随する様々な苦悩煩悶確執罪過が人の生の実相だとする。このことを悟れば此の世に迷妄をもって未練を残すことは意味のないことになり、「色即是空空即是色」をもって認識(覚醒)となり、悟達に至る。この悟りが凡人に容易に訪れないことはわかりきっているので、人は孤立を恐れ、塊に身を投げ出す。(つづく)
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