15年戦争の捉え方は現実と理念の両刃の剣で扱えば済むと言うものでないことは容易に了解されよう。そこには複雑な日本人的事情がある。しかしそれは世界的事情でもある。何故ならそこには21世紀的展望という課題が控え、20世紀的総括乃至19,20世紀的理念の淘汰と洗い出しという文民課題が厳然としてあるからだが、残念ながらこうした課題に対する世界のアプローチは甚だしく脆弱な様相を呈してきた。日本が急激な資本主義の発達と軍事的覇権的拡大によって多大な犠牲を払いながら敗北し去ったと同様に、大国主義のソ連もまたアメリカもその官僚社会主義の限界で潰えたのと地域と異域の民族的自決に虚しく追い払われたのと、共に必ずその方向性が完敗することの証明のように世界に負のイメージを与えたのだった。既に西欧の没落は予言されていたがその甚だしい兆候は財政困難に陥った農本貧困国において如実に顕在化した。ヨーロッパの衰退はこれらの諸国が19,20世紀にかけて後進地域にその市場拡大を諮り、戦乱とともにこれらの植民地を喪った結果の自然な流れに過ぎない。一国限定資本主義という考え方、モンロー主義のようなのもありえるし、江戸日本国の鎖国もあり得る。TPPはアメリカ合衆国の独善にほかならないが、米国一国集中支配的世界観にあってはこれも過渡的な役割を担うのであろう。経済戦争の段階では各国間論争が盛んになるだろうが、一方で米国のように「威嚇と懐柔」を旨とする、本来戦争経済の骨組みを改変しない国家方針においては、絶えずきな臭い非常に反人民的な軍事的傾向を醸し出し、これの影響が諸処に突出してくることをはっきりと考慮しなければならない。どういうことかというと、例えば日本国首相安倍晋三の考え方は、本来従属性と追随性によって主体的自由主義の基本を喪失している日本国が、いかに集団的自衛権容認をもって多くは米国の戦争に実戦的に加担したとしてもこれを国家的な自律的防衛手段と考えるものは恐らく誰一人としていないし、ただ単に米国属国化を一段と進めるだけの売国的方向へ流れるだけのことだ。(つづく)
日米ガイドライン2プラス2の内容から言えば日本政府乃至日本人の基本的な考え方には非理念性が露骨に表れており、まるで「女々しい」現実論が王道か既定路線のように蔓延っているのがわかる。日米同盟堅持は言わずもがなだがこの同盟の非同盟性もさることながら、日本側の相変わらずの米国「核の傘」有効論やあるいは完全な「吉田ドクトリン」丸ごと踏襲という停滞的な思考回路が見え透いていてやりきれない。この国の気概のなさはそのまま安保に関する日本人のそれに直結し、戦後68年のこんにちにあってさえ現実的に防衛構想やら戦争観念をまともに扱う論陣に出会ったためしがない。三島由紀夫が唯一の正論だったが彼に決定的に論理的飛躍を加える「天皇制」さえなければ、左右の別なく推奨しうる考え方に違いない。当然日米安保はこの国をだめにする元凶であり即時廃棄とすべき不平等片務協約ということだ。では文化防衛論の骨子は那辺に存するか。(つづく)
勿論筆者の「検証」は印象論であり直感論にほかならず、実証性に乏しいので誰も一瞥程度で気にも留めないはずだが、人は自身の能力の範囲でしか物事に対処できず、背景から掘り起こして裏付ける手間を省いた片手落ちの謗りというのは甘受せざるを得ないとしても、専らおのれの痛いところを好んで突っついていることは努めて自戒して心がけていることではある。別にMでもないのだが、弱点や痛みの伴う部分を殊更に穿ることは、しばしば、物事の本質に肉迫する方法のひとつでもあるのだ。(つづく)