沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩488 検証 8 虐待

2013年10月07日 08時31分34秒 | 政治論

 琉球文学と、ユダヤ人でドイツ語作家フランツ・カフカとの類似性は夙に言われるが、ユダヤと琉球が本質において同系の運命を辿ったとみるときには、これもさもありなんということになるのだろうか。

 シオニズム(琉球独立に対応するか)は当然カフカの政治的な関心の中にあったが始めは決定的なものではなかった(その後多少の変遷があってやがて決定的になるが)。一方逼りくるホロコーストの足音をカフカは聞き分けていたろうか(死亡したのが1924年なので彼の生涯は時系列的にはナチ台頭に接しなかった)。

 その後妹オトラはアウシュビッツで殺された。無数の"オトラ"を生んだ沖縄戦、敗戦後の米兵犯罪、少女暴行事件、核付き基地温存返還、揺ぎ無い基地拡大方針、琉球軍事植民地化、オスプレイ強行配備、八重山地区公民教科書政治介入、使用困難な基地汚染実態、これらに通底する明瞭な「人種差別(同族異種差別)」実質、みるからにあのナチス犯罪の同類項を連想する。

 強権行使によって「国家専権行為」と称して、人民無視の施策を強行する日米合作の琉球凌駕は、アーリア人絶対優越主義に基づき、絶滅計画を実際に実行したナチスのおぞましい非人間性と同類に違いない。

 日本国官僚どもの怯惰な保守停滞主義、事なかれ主義と結託した米国軍産複合戦争経済主義。およそ「民主主義」理念には程遠い、封建遺制が勝った人民不在の驚嘆すべき前近代性である。2プラス2のはげたかどもが相変わらず「辺野古推進」と言い放つとき、彼等は、自分たちがどういう位置に立っているか少しも考えないのは間違いないが、これをしも、琉球に来て県知事に説明する同じことの繰り返しに対し、馬鹿馬鹿しさを感じない無神経さに気が付かない滑稽さは、殆ど彼等の「頭の悪さ」を証明しているようで、こんな連中に牛耳られなければならない琉球の運命を悲嘆する音声(おんじょう)は、無限旋律のようにいつまでも鳴り響いている。しかし悲嘆ばかりしていられない。今日も明日もやんばる高江の自然破壊は続けられ、これを食い止めようとする監視抗議活動は折からの連続台風の合間にも不眠不休で行われる。(つづく)