沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩488 検証 12 2.26事件

2013年10月10日 21時58分24秒 | 政治論

 三島由紀夫の「憂国」という作品名は小説的レベルでの象徴的な意味しかないようだが(ここで扱われたのは専ら切腹の美学で、現実のモデルは妻共々自決した近衛輜重兵大隊の青島謙吉中尉ではないかといわれる)、2.26事件の首謀者である(北一輝、西田税の二人は思想的扇動者と見做されたが実際には彼等の思想と無関係な兵士が多かった)皇道派青年将校とその部下たちにあっては「憂国」の至情に満ちていたという評価が相応しいかどうか知らないものの、昭和天皇が激怒し早くに賊軍と処断し兵士の原隊復帰を命じさせた事実は日本史の上で彼等を少なからず不等価に貶めたことは間違いない。他の論評に不案内なのだが、歴史のダイナミズムは彼等の行動を概ね軍部の権力闘争に重ね、所謂(皇道派の対立派閥である)統制派の主流陸軍派閥が覇権を得、大陸満州での関東軍軍事行動拡大方向へ突き進む発條(バネ)の役を果たしたように扱われる。しかし彼等の内患(政財界の腐敗堕落、農村の疲弊等)改善を優先すべきとする主張から不拡大方針をもって大陸策としたように、統制派の対中強硬姿勢とは完全に袂を分かっていた。この派閥間争闘の内容は機械的機能的効率的国防思想と、人間的内発的主体的な国家思想の対立のようにも見える。果たして昭和天皇の彼等に対する真っ向からの処決は、「統帥権干犯」の問題すら置き去りに軍部の台頭とその強硬姿勢の増幅を生んだ、まさにそのきっかけとなったのではないかとさえ思われる。(つづく)

 


詩488 検証 11 憂国

2013年10月10日 07時03分42秒 | 政治論

 「憂国」という情念は、しばしば論理的飛躍を惹き起こすが、それが情念である限り不合理な非論理性に突入するのは当然のことだ。問題となる人性が、非人情な科学的論理性に耐えられるかどうかは、「人間」存在に付き纏う限界限度を見極めるという作業を通して「人間」に肉薄し、微分的な方法でこれを析出するしかない。つまり「憂国」という情念が狂気と袂を分かつには、人性の積分、「人間」の領域を能う限り正確に計測することが前提される。「憂国」という情念自体が既にれっきとした超人間性を表しているが、この飛躍が「国家」あるいは単純に国というものに目を向けた彼の「人間」に依拠することは論を待たないだろう。不思議なことにこの表面上の矛盾は、「動機と志向」の関係を明かしているに過ぎず、国が先か国の「憂うべき現状」が先かは問題にならない。どちらかと言えば国は必ず憂うべき対象なのだ。従って彼の「憂国」が、取り立てて"英雄的に"必ずしも国のためになるとは誰も信じないだろう。「憂国」からヒロイズムを排除したとき残るのは「空想から科学へ」の科学、客観的な社会学にほかならない。しかしながら何故彼は国を見て人を見ないのだろう。例えばカール・マルクスはイギリスの労働者の実態を見て、その悲惨な労働環境に痛く同情し、その労働の仕組みとカラクリを解き明かそうと、資本論に至る経済学的論考を重ねた。そこにあるのは"労働する人間"である。この人間を観察したときこれに関わる社会が見えこの社会を統べる国に目が向く。初めから国が見えるというのは、論理的飛躍とは別物だ。むしろ人間のいない国を、そういう機構というのが問題になるというのは、「発狂」...幻覚...を前提にしないと説明できない。(つづく)