三島由紀夫の「憂国」という作品名は小説的レベルでの象徴的な意味しかないようだが(ここで扱われたのは専ら切腹の美学で、現実のモデルは妻共々自決した近衛輜重兵大隊の青島謙吉中尉ではないかといわれる)、2.26事件の首謀者である(北一輝、西田税の二人は思想的扇動者と見做されたが実際には彼等の思想と無関係な兵士が多かった)皇道派青年将校とその部下たちにあっては「憂国」の至情に満ちていたという評価が相応しいかどうか知らないものの、昭和天皇が激怒し早くに賊軍と処断し兵士の原隊復帰を命じさせた事実は日本史の上で彼等を少なからず不等価に貶めたことは間違いない。他の論評に不案内なのだが、歴史のダイナミズムは彼等の行動を概ね軍部の権力闘争に重ね、所謂(皇道派の対立派閥である)統制派の主流陸軍派閥が覇権を得、大陸満州での関東軍軍事行動拡大方向へ突き進む発條(バネ)の役を果たしたように扱われる。しかし彼等の内患(政財界の腐敗堕落、農村の疲弊等)改善を優先すべきとする主張から不拡大方針をもって大陸策としたように、統制派の対中強硬姿勢とは完全に袂を分かっていた。この派閥間争闘の内容は機械的機能的効率的国防思想と、人間的内発的主体的な国家思想の対立のようにも見える。果たして昭和天皇の彼等に対する真っ向からの処決は、「統帥権干犯」の問題すら置き去りに軍部の台頭とその強硬姿勢の増幅を生んだ、まさにそのきっかけとなったのではないかとさえ思われる。(つづく)