沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩488 検証 7 年金生活

2013年10月06日 14時39分51秒 | 政治論

 年金は、60歳になるまで働けるうちに蓄えた預貯金の一種なのだろうが、その預貯金を国や代行組織が隔月に該当者に送金する仕組みになっているわけで、これを継続して自動的に受け取るには彼がそのとき基本的に不労であることを条件としている。彼が一定額の労働をしている限り年金も一定額しか送金されない(総じて累計的には同じことだ)。したがって基本的に「働くな」「働かなくともいい」と言っているようなものだが、「(その年齢や身体的事情のせいで)働けない」という場合も必然にあってこれを矛盾視することには大して意味がないし、当然年金だけでまともに食っていけないとなれば、様々な方法で収入の道を確保しないわけには行かない。年金制度はかくしてその受給年齢に達した段階で個人的にいくつかのパターンに分岐させられる。その受給額が月数万程度の場合、その生活は切り詰めたものになり、医療費の兼ね合いもあって老後とは言いながら大変に不如意な生存を強いられる。まして係累もなく独居するに至っては見るも惨憺たる有り様に陥ることも稀ではなくなった。しかし老老介護や同居家族による介護にしても、想像を絶する悲惨を現出することが問題視されて久しい。社会学的観点から概括的統計的に人間を観察するのは必要なデータ収集だが、こうしたところに生じている現象には十把一からげに扱えない内容が厳然としてあり、例えばわが子を当てにして安泰な老後を期待しながら現実は子に捨てられるという不幸?を強いられる話も多い。逆に自立して単独に生活しながら好き勝手に生きて幸福な老人もいる。年金生活は不労所得生活に違いないが、銭にならない労働(ボランテア)などを通じて何物かに貢献するという行為によって、辛うじて「額に汗しない」謗りを免除してもらうしかない。一方間尺に合った規模で生きる限り我欲さえ張らなければ「晴耕雨読」も捨てたものでない。ブログなどというのは匿名性なゆえに気まますぎて遊び(すさび)にちがいないが、「浩然の気」を養うには面白い道具である。(つづく)