沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩488 検証 24の2

2013年10月20日 21時17分04秒 | 政治論

 我々は、この、ある人間たちによって計画され実行されたホロコーストを、例えばフランクルの「夜と霧」やアンネ・フランクの「日記」あるいは夥しい数の記録、論評、告発によってしばしば眼にし耳にするし、その周辺や関係者、被害者、生存者、加害者の係累、などの陳述証言を聞かされたりするのだが、このケスラーの、モニカ・ゲートとの実験的対話のような、人間の本質に迫る掘り下げ方でアプローチしたものに出会うことは少ない。それは例えばドストエフスキーの諸作にみるような迫力で生々しく読者に問いかけてくる。訳者はその締めくくりにこれを、親子の心情に関わるありきたりだが特殊な表徴のように受け止めたらしいが、果たしてそのように読むべきものだろうか。例えば「罪と罰」のリアリズムは、我々を実に多くの心理的ドラマ性の名シーンに誘うが、そこから見えてくるのは興味深々なドラマの筋立てではなく、作者によって鋭く洞察された、人間のなかの「善悪の彼岸」めいた複雑さであり、その現実性だ。我々のうちにあるナチ的なもの、つまりはあらゆる罪過の根源たる煩悩、傲慢、怯惰、無関心、に気づかされる、という時間の必要性であろう。(つづく)



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