沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩488 検証 36

2013年10月28日 13時19分07秒 | 政治論

 某情報番組の総合キャスターを務めていたM氏の番組降板事件に関し、広告料名目で「原子力ムラ」が原発に批判的なマスコミマスメデア乃至政治的公人に対し、不当なかつ強権的な圧力をかけていたと、菅元首相がブログにおいて批難している、と報じているのが産経新聞だというのもなんとなく笑わせる。この、読売と並ぶ稀代の右傾化報道紙の菅批判は別として、米国諜報策謀の国際問題化と相俟って、下司なドブネズミどものうろちょろする日米合作の戦後世界は、三流やくざ映画さながらに、いつ何時寝首を掻かれるか知れない暗黒界の様相を呈している。だから、既に誰が見ても到底許容できない環境アセスをもって強行提出した辺野古埋め立て承認申請も、"彼等"が、あらゆる汚い手でもって県知事をその当たり前の決断から引き摺り下ろし、死に目にあわせ、「苦渋の」判を押させる、という大団円が待っているのを想像させないこともない。(つづく)


詩488 検証 35の2

2013年10月28日 09時59分05秒 | 政治論

 ここ沖縄県国頭郡東村高江、あるいは国頭村において、米軍北部訓練場の一部返還に伴う(ここにまず「返還」が代替施設を伴うという矛盾性に結託していることを指摘しなければならない。つまりこれは「返還」という、「負担軽減」に託けた欺瞞であることは間違いないのだ....あるいは「辺野古」の場合は人口密集地を避けてできるだけ過疎地に移設するという考え方でもある)ヘリパッドを建設する行為は、一般の工事請負者(多分殆どウチナンチュに占められた業者)が防衛省沖縄防衛局発注工事として請けたものであろうが、その設計に携わった人たち含めて、こうした国家事業が含んでいる多くの矛盾をただ、会社単位の利潤追求の視点のみで傍観していていいものかどうか、第三者の立場で物申すと、背に腹は代えられぬものとして「自然破壊」につながる工事を地元民の意向を無視して、スラップ裁判さえ仕掛けて強行していいものかどうか。もし、よくないことだと思うのなら、会社に申述して会社ぐるみで工事中止を訴え、いざとなれば請負契約解除までやるべきことではないのか。しかもこのヘリパッドは必ずオスプレイのための基地になるわけで、このオスプレイによる自社環境アセス(既に旧式ヘリに関するそれは提出済み)について防衛局は、県の再試行勧告を不問に付している。これら工事関係者の人たちに元来「悪党目送」の謂れは無い。言ってみれば上部構造からの下達という「言い訳」でできている。しかも「組織悪」ですらない。全ては沖縄県民の頭越しに日米2+2の机上操作で決めてきた日米政府の片手落ち(高江の場合は米国安保強権軍事専管行為らしい)としかいいようもない。彼等だけで決めてきた事柄について、これを実行する側から、物申すことが困難な国とはいったいなんだ。封建遺制というしかない。つまり前近代的な「官尊民卑」思潮そのものなのだ。「お上のすることに間違いはございますまいから」という言い方が至上の抗議だった(森鴎外「最後の一句」)江戸時代とは違うのだ。(つづく)


詩488 検証 35

2013年10月28日 07時54分51秒 | 政治論

 ハンナ・アーレントの「エルサレムのアイヒマン」は様々な社会で種々の物議をかもしたが、ナチのホロコーストを扱った現代的な哲学的アプローチとしては、これを読むものに複層化した時代の精神的な戦後処理がどこまで「リアリズム」を追究しうるかという視点に一定の見解を見るように仕向ける効果を与えたかのようにも思われる。彼女がアイヒマンの裁判記録で析出した問題点は既に現時点でひとつの「常識的な悪概念」を定着させているのだが、彼女の判決は間違いなく正確にアイヒマンを死刑に処することであったし、アイヒマンが、あるいは彼の弁護団が、(その弁護に注釈を加えるいかなる権威をもってして)如何にその現代的解釈に関わる様々な「言い訳」を用意しようと必ず、絞首されるべき行為としてしか、社会も世界も対処しない、という事実に逢着するわけだ。何故なら、ナチズムは、人類が「悪」に手を染めてからその人類史に刻んできたいくつかの「罪」に対し、弁明する根拠を持たない「してはならないこと」を現実にしてしまったのだから、というのである。「してはならない」ばかりか恐らく「決してすることはない」ことを実行してしまった、ということだ。その組織的集団的犯罪に属し、その機能的部品と化し、機械的に殺人を指揮した人間には、言い逃れようも無い「罪」が必然に生じる。これはケスラーとモニカの対話において実現したアーモン・ゲートに対する、アーモン・ゲートの娘モニカ自身による「父」に対する「断罪」というテーマに似ているが、「断罪」と同時にモニカの(父の犯罪という事実に対する罪障感の虜になっている状況からの)精神的救出という企図さえ実現したという側面を持っている。つまりアーレントの試みは現代人の魂の救済を哲学的に実現する方法について示唆しようとするものと捉える必要があることになろう。(つづく)