再び。ナチスドイツ、プアシュア強制収容所所長で親衛隊大尉アーモン・ゲートの娘モニカ・ゲート(現在68歳、対話当時57歳)とマティアス・ケスラーのインタビュー形式の対話(2002年、2日間にわたる)にあって、ケスラーの巧みなインタビュー手法により、モニカのなかの深層心理にある(彼女の生い立ち、境遇、母親はじめ係累とその関係する他人、あるいは彼女の性格性質からくる)自己責任倍加傾向(自虐傾向)を正確に炙り出し、彼女と殺人者で父であるアーモンの明確な区別、峻別を外科手術のメスのように彼女のなかに見事に成就させた。その父の娘であるゆえに負う責任というものは基本的にはない(我々戦後世代が中国、韓国、北朝鮮、あるいはアジア一般に対し我々の父祖たちが起こしたあの戦争の責任を負う必然性は原則ない)。しかし、だからといってその父の犯した類まれな大量殺人という卑劣な犯罪行為を、如何なる理由においても決して許すことはないし、決して許されはしない(その立場は結局その殺人の被害者、被害者遺族にしかあり得ないし、彼等の立場からは当然の対応でしかない)という状況について変更はない。一方、アーモン・ゲートという「性格異常者」は最も一般的にあらゆる犯罪者に共通の傾向によって説明される。ここでは彼が父であろうが他人であろうが、一切の言い訳は通用しないし(時代、環境、上層部、上官、あるいは一切の外面的な理由をつけての言い訳)、この説明の成り立った瞬間に彼は「絞首刑」を免れない一般的な犯罪者に振り分けられる。つまり、その人間的な情状に即した物欲、出世欲、名誉欲、など、で説明されるし、又基本的なマニアックな嗜好、殺人快楽、享楽傾向、怠惰などで個別化される。あらゆる犯罪に共通する課題と共にひとつの明白な犯罪として人類の名によって告発される。最終的に、娘は父の犯罪を憎み、告発し、絞首刑にする(それを肯定し、社会と意を共有して断罪する)が、彼女の人間性はこの父から「贖罪」の遺産を引き継ぎ、彼女の人生を静かに歩き出す。ということ。(我々の父祖が犯した戦争における罪過を世界とともに断罪し、我々の戦後をその意味において歩き出す。)(つづく)
つまりそれは例えば、琉球島嶼が故知らず負わされたこの国の掃き溜めのような運命に関するこの国の本土といわれる主役たちが我知らず持っている無関心、あるいは根拠のない優越感、境遇に関する怯惰な安堵感(そのための「対岸の火事」的なニヒリズム)などは、例えば同じような立場ならこの島嶼人にも当て嵌まる、当て嵌まりうる単純な心理的「河童の川流れ」、としてたち現れるようなものだ。(つづく)