死は生の一部でありその逆も言える。しかも死は永遠的(永遠ではない)だ。あらゆる死にまつわる物語、伝承、創作、は全て「見てきたような」嘘でありそれについては何一つ実証されてない(臨死体験は死ではないし、あるいは現実の死でさえない)。従って、死は無かもしれない、というのが最もそれらしく聞こえる。つまり死ねば何もない、「夢も希望もない」のだと。天国も地獄もない、従って未練も口惜しさも喜び、悲しみもあるはずがない。大体が「在る」ということはどういうことか。もし死が「無い」ということなら生は「在る」、つまり「全て」、かもしれない。生が全て、だとすればそれは生の可能性を無限大に夢見ることになる。生の可能性とは...それは不可能を可能にすること、生きている限り、生き続ける限り何が可能か予測できないということ、ここに生の無限旋律がある。確かに人はいやでも死ぬまでは生き続けるのであって、生が全体だとする根拠もそこにある。何故人は死を生の一部だといい、その逆に生は死の一部だと言ったのか。誰しも永遠に生きることが無いかわりに誰でも永久に死に得るという事実が、こう言わせたのだ。しかし生は絶えず死と共に在る。従って、自殺も殺人も両者(生と死)に相わたる方法であり、意思がこれを瞬間的に可能にする(誤って殺すこともあるが)。(つづく)
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