犀川の河川整備を考える会

犀川の辰巳ダム建設を契機に河川整備を考え、公共土木事業のあり方について問題提起をするブログ。

辰巳ダム>辰巳ダム建設で青谷砦跡が破壊された?(その2)

2012年04月09日 | 辰巳ダム
相合谷砦と青谷砦は別物で破壊されたのは相合谷城跡だ
『石川県遺跡地図1992』の相合谷城跡は捏造か

『石川県遺跡地図1980』と『石川県遺跡地図1992』のそれぞれの遺跡地図の登載の元となる資料などの文書を公開請求して、4月6日に文化財課の方から公開を受けた。公開を受けたのは、「埋蔵文化財包蔵地調査カード」である。前者については、資料1と資料2、後者について資料3である。いずれもわずかな記載があるだけであり、位置図、写真、遺跡略図についての記載はなく、補充カード(資料)もないという。相合谷遺跡に関する文献「縄文拓影資料集(沼田)No271」についても県に資料はなく、印刷物として所在しているかも不明であるという。要するに根拠資料はなく、結論だけが地図に表記されている。そして、『石川県遺跡地図1980』から『石川県遺跡地図1992』へと記載内容が変わっているがその理由も不明である。

縄文の相合谷遺跡は抹消されたので検証の手がかりもないが、相合谷城跡については、位置が変更されただけで抹消されたわけではないので、1980地図のもと資料2と1992地図のもと資料3の「埋蔵文化財包蔵地調査カード」を比較すれば位置を移動した理由の一端がわかるはずである。ところが、記載内容は同じである。現状は水田、立地は台地、地名はジョウノあるいは城野、空濠、平坦面、となっている。カード様式は少し違っているが、まったく写しただけのものである。位置を変更しなければならなかった理由の痕跡もない。この痕跡からすると、有識者の委員会に諮ったとも思えない。教育委員会のしかるべき責任者が勝手に位置を動かしたとしか思えない。

今回、公開に立ち会った文化財課の担当者は、資料3『金沢市遺跡地図(改訂版)』(1991.3金沢市教育委員会)を示して、金沢市の地図でも同じところに相合谷城跡の登載があると説明し、古いことなので詳細はわからないとしながらも、この資料が根拠となって石川県の地図も訂正したのではないかと主張したいようであった。埋蔵文化財の調査については市町村が調査をして県に報告、あるいは県が調査して市町村に報告と互いに情報を共有しているということなので、県のカードの杜撰さから見ても金沢市の根拠資料を調べてもそれ以上の情報がわかるとも思えなかった。

文化財課の公開の後で、辰巳ダム建設事務所から、前回のつづきの「埋蔵文化財関係綴り」の公開を受けた。その中で資料5と資料6があり、新しい発見があった。相合谷城と青谷城は別物であるということであり、相合谷城跡については、比較的詳しい調査カードがあったのである。『石川県遺跡地図』では、相合谷城跡の登載しかないので、青谷城跡も同じものと誤解していたが、資料5『日本城郭大系7 新潟・富山・石川』によれば、青谷城跡は瀬領の対岸の鴛原町の通称長山というところにあった別物だったのである。相合谷城跡については、資料6「石川県史蹟調査カード」(石川県教育委員会)があり、昭和46年(1971)に調査がされている。場所は、辰巳ダム堤体の左岸の付け根のところで、三昧(火葬場)があったところである。城野(ジョウノ)という通称の地名からも名残がうかがえる。自然の地形を活用した素朴な要崖だったようである。

後に作成された資料2「埋蔵文化財包蔵地調査カード」の情報はすべて記載されている。特に資料6の面積約1160坪が資料2では3800m2となっているが、単位は違っているが面積は同じである。そして最も新しい資料3では面積だけが抹消されていて、位置が別のところへ移動されているのである。つまり、情報は昭和46年(1971)の調査と昭和60年10月と61年3月に行った重機による掘削結果(埋蔵文化財は確認されなかった)である。昭和46年の調査では城跡だと説明していることに対して、昭和60,61年の調査では埋蔵文化財が見つからなかったというだけで城跡が存在しなかったという説明にはなっていないので、引き続き、「相合谷城跡」として残るはずである(埋蔵文化財関係では、「判断保留」という処置であり、後日、「追加調査」が行われるのだという。)。

「相合谷遺跡」の抹消については不明であり、「相合谷城跡」については捏造の疑いがある。
平成24年4月7日、中 登史紀

資料1 「埋蔵文化財包蔵地調査カード」 県No.1244市No.12,相合谷遺跡
資料2 「埋蔵文化財包蔵地調査カード」 県No.1245市No.13,相合谷城跡
資料3 「遺跡地図改訂カード」県No.1245市No.13(上段に363のナンバーあり),相合谷城跡
資料4 『金沢市遺跡地図(改訂版)』1991.3 金沢市教育委員会
資料5 『日本城郭大系7 新潟・富山・石川』 新人物往来社 昭和55年(1980)発行 501頁に「202青谷城 金沢市鴛原町 犀川に臨む通称長山の台地上という」、「203相合谷城 金沢市相合谷町 通称城野の水田。」
資料6 「石川県史蹟調査カード」県No.1245市No.13,相合谷城址
資料7 「石川県史蹟調査カード」県No.1249市No.17,鷹巣城跡

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