犀川の河川整備を考える会

犀川の辰巳ダム建設を契機に河川整備を考え、公共土木事業のあり方について問題提起をするブログ。

辰巳ダム裁判>辰巳ダム裁判が終結しての感想

2017年02月28日 | 辰巳ダム裁判
 辰巳ダム裁判は、辰巳ダム建設にかかる土地を国が強制収用するために、事業認定処分を行ったことに対して、処分取消を求めて住民が起こした訴訟である。処分取消を求めた訴訟の中身は、土地収用法の20条3号、4号要件に違反している、つまり、辰巳ダム建設事業計画に合理性があるかどうかという主張である。

 辰巳ダムは治水ダムであり、治水計画の核心は、基本高水であり、事業計画の合理性の云々することは、とりもなおさず、この基本高水(想定する洪水の大きさ)をどう決めたかを争うことになる。まさに、河川工学の技術的な論争である。

 10人の技術者がいると、十人十色で10の技術的回答があっても不思議ではない世界である。このようなことについて、門外漢の素人の集団である、司法の判断を仰ぐというのは、無理な面がある。しかし、行政のやっていることを、司法の俎上にのせられることは、行政にとって脅威である。答えたいことしか答えないし(長所だけ、短所はあまり答えない)、難しいことは行政に理解ある学識経験者に言わせることが通例でだいたいこれで乗り切れる。司法の場では、わからないだろうとタカをくくっても、答えたいことにしか答えないというわけにはいかないだろうし、そこで議論されたことは文書化され、広く流布し、永久に注視され批判の対象となる。当方を含めた、理解力の劣る人たちもじっくり考えることができる。

 おかしいなあと考えるのは、辰巳ダムの根拠となる基本高水である。

 辰巳ダム裁判で最も主張した論点は、犀川の想定洪水(基本高水)が有史以来発生したことのないような過大なものだということである。そうすると、この想定洪水(基本高水)をもとにした辰巳ダムは科学的根拠も法的根拠も無いものとなる。

 この争いのキモは、治水計画のもとになる数値、基本高水を「確率」で決めていることである。辰巳ダムでは、100年確率、あるいは1/100の洪水量である。

 昔は(昭和33年「河川砂防技術基準」で確率主義が誕生)、既往最大(過去に起きた最大の洪水)で決めていた。対象とする洪水が大きすぎて治水事業費が追いつかないというので、辰巳ダムの例とは逆に、基本高水を抑えるために、洪水の発生確率と被害額を結びつけて経済的な治水事業をすることを意図して、確率で基本高水を決めるようになった(名古屋大学の中村晋一郎の論文より)。

 ところが、治水の整備水準があがった現在(犀川では、治水ダムは3カ所目)、この確率主義が基本高水を過大に算定するための道具になった。

 既往最大主義では、答えは、一つである。過去に起きて観測できた最大洪水である。ところが、確率主義では、答えは、無数にある。答えを求めるには、確率を与えて、計算するが、計算式も計算に用いる係数も様々にあるためである。通常、コンピュータが用いられる。コンピュータで計算すると、係数を変えるだけでどんな答えでもでてくる。辰巳ダム計画では、約500m3/秒から1750m3/秒まで24の答えが示された。すべて、100年確率である。1750m3/秒のケースにしても、飽和雨量という係数を変えれば、2000m3/秒を超える。

 挿入する係数の不合理さについて様々に指摘したが、裁判所は「その判断が不合理であるとはいい難い」と判示、つまり、100%不合理ではないというわけであるが、技術論で100%不合理と主張することはなかなか困難であり、不発に終わってしまった。
計算された数値を検証していないということについても、同様の判示である。

 コンピュータの係数の設定は、行政裁量の範囲内、計算して求められた洪水量を検証しないで採用することも行政裁量の範囲内というのが、裁判の治水に関して示された判断である。

 けれども、裁判の成果として、確率主義による基本高水の決定が、現実を適正に反映していない、かなり問題のある手法であることを明らかにした。

 このような「基本高水」を争点にした裁判の例は、山形県の最上小国川ダム、八ッ場ダム、長野県の浅川ダムなど数少ない。
2017.2.28,naka
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辰巳ダム裁判>「辰巳ダム裁判上告結果について」の記者会見

2017年02月27日 | 辰巳ダム裁判
 辰巳ダム裁判原告団は、平成29年2月27日午前10時より、金沢弁護士会館202号室において、「辰巳ダム裁判上告結果について」の記者会見を行った。
 原告団長碇山ほか、3名が出席、弁護団から訴訟代理人弁護士が同席した。
 10数名のテレビ、新聞の取材があった。
 碇山団長から、「辰巳ダム裁判上告結果」について報告。
「控訴審の判決を不服として、2015年11月20日に最高裁へ上告し、2017年2月2日付けの文書で「上告不受理」との決定がなされた。平成20年の提訴から、9年で終結。裁判は力及ばずという結果だったが、辰巳ダム建設反対の運動も含めて様々の成果があったと考え、これらの足跡と成果をまとめた記録集を作成し、後続の運動の参考にする。我々の指摘した治水の問題点は引き続き重要であり、河川管理についての必要な問題提起も続けていきたい。」と結んだ。
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辰巳ダム裁判>2.28ブログの追記【既往最大主義から確率主義へ】

2017年02月26日 | 辰巳ダム裁判
 「既往最大主義」から「確率主義」へ変わったということについて、「統計」だけの世界から、「確率」の世界に変更されたとも言えるようだ。

 「統計」は、標本(サンプル)を集めた集団について、そのかたち、傾向、規則性などを分析することと考えられるが、大きく分けて、量的側面を捉えるか、質的側面を捉えるかである。雨に例えると、1年にどれだけの降雨があるかというのは量的側面、毎年の降雨の標本から、将来の降雨の傾向を分析することは質的側面と言うことができる。

 「確率」というのは、統計(質的側面)に「確率」を与えたときに計算できるということである。計算できるだけで、計算されて求めた降雨に因果関係はない。100年確率の雨が100年の間に必ず降るという因果はない。計算した結果があるだけである。現実とは必ず異なり、一致しない。一致したとしたら、それは単なる偶然にすぎない。

 ただ、適正なやり方で求めた結果は、現実に近似していると考えられるので信用してもよいだろうと考えるだけである。

 当然、適正と思っても適正でなかったりするので、現実と齟齬がでてくる、現実と齟齬がでてくれば、フィードバックして係数を再検討したり、計算式を代えたりする必要がある。あくまでも確率で求めたものは従である。現実が主であり、確率で求めたものは、架空のものであり、現実にあわせるように修正しなければいけない。

 現実と合わず、おかしいにもかかわらず、コンピュータで計算された数値を金科玉条のごとく、これが真実だと主張しているのが、国と県の姿だ。コンピュータ算出値といっても、無数の中から、特定の数値を選択して強弁しているだけだ。

 辰巳ダム計画では、46年間のサンプルから、100年確率として1750m3/秒を選択した。筆者は、裁判で70年間のサンプルから、100年確率の極限値として1269m3/秒が算出できることを提示した。裁判所は、70年は100年に満たないから、1269m3/秒を採用しないことは不合理ではないと判示したが、明らかに矛盾している。46年間も100年に満たないから、1750m3/秒を採用しないとしても不合理ではないということになるからだ。

 確率で求められたものが、肯定されたり、否定されたりして、簡単に逆転するのは、確率というのは、計算できるというだけで、現実に裏打ちされた確固としたものではなく、現実を表現しているかもしれないという存在にすぎないからである。現実にたどり着く、一つの手法に過ぎない。現実を近似的に表している場合もあるし、見当違いのこともある。現実は、現実をしっかり、みることでしか、わからない。

 はっきりしているのは、辰巳ダム計画において、確率主義は、現実を見る目を曇らせることに役立っている。

2017.2.28,naka,追記
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その他>天皇は、日本国の象徴ではなく、日本国の元首だ

2017年02月25日 | その他
 天皇は、国の長としての特別の権威を持った存在だ。
 日本国憲法には、一条から八条まで、天皇は、政治権力を持たない、権威付け、お墨付きを与える存在としてかかれている。
第六条では、「天皇は、内閣総理大臣を任命する。」とあり、天皇のお墨付きをもらって権威付けをしてもらわないと、政治の権力者は権力を行使することはできないことになっている。
 政治の実権を持たないが、日本国民の代表、つまり国家元首(head of state)というべきだろう。

 だが、現在の日本国憲法第一条には、変なことが書いてある。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、、、」とある。
 国の象徴(symbol of state)とあり、天皇は日本国のシンボルで、日本国民統合のシンボルというが、それならば、
富士山も日本国のシンボルであるから、富士山と天皇は同じで、天皇は富士山か、ということにもなりかねない。シンボルではないだろう。

 第一条の後半に、「(天皇)の地位は、日本国民の総意に基づく。」とあるから、国の代表ではないということを国民が決めると、天皇の地位はなくなるということだ。だが、シンボルだとすると、国民がシンボルでないと決めても、富士山が消滅するわけでもなく、富士山が日本の真ん中に存在する限り、日本のシンボルであることには変わりなく、同様に天皇は日本のシンボルであり続ける。シンボルなんてものは、国民の総意で決めるものではないのではないか。

 そもそも、天皇の地位は、歴史的な経緯で出来上がったもので、日本国民の総意で決めたわけではないので、このような記載は不要だと思うが。

 ともかく、作成者(GHQ)は、よほど「元首」とすることがいやだったのだろう。アメリカは、平民の元首しかいなくて、特別の存在の元首がいないからなあ(-_-;)
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その他>日本という国柄について考えてみた

2017年02月24日 | その他
 中東の混乱から始まって、ヨーロッパ、アメリカ、中国、朝鮮(北朝鮮、韓国)の混迷が深まる中、わが国は様々な問題は指摘されるものの際だって安定しているように感じられる。つい最近まで訪日外国人観光客目標が一千万人だったという記憶があるが、昨年は2400万人にも達したという。安定している証しだろう。
他国との違いについて考えてみた。

 おりしも、天皇のご譲位の問題が懸案になっているが、天皇をいただく日本という国柄が他国と大いに違う点であろう。なにしろ、おおよそ二千年の歴史があって、代々途切れることなく天皇の御世が続いているのである。地球上のどこにもこのような例は存在はない。国柄が安定している証しである。

 国柄が安定しているといっても、当然ながら、いつでも平安だったわけではない。安定と不安定の連続だった。ところが、国全体が壊れるところまではいかなかった。それは、天皇が存在したからだ。

 日本という国は、天皇という特別の存在と一億の民で構成されている。西欧から持ち込まれた価値観「自由」、「平等」の範疇の外の特別の存在である。天皇のもとに、「自由」で「平等」な一億の民がいる。

 国を治めるには、政(まつりごと)が必要だ。
 民をまとめるためには、人材、物資、財源が必要だから、時には強制的に集めることも必要で、力で支配する権力がいる。この権力をめぐって暴力による奪い合いも起きる。安定と不安定の繰り返しだ。どの歴史を見ても長くて数百年で権力の交代がおきる。
 天皇は、このような争いごとの外の存在であり、争いごとは、特別の存在を除いた国のかたち、いわゆる「政体」の中での権力の争奪である。

 全体の国のかたち、つまり「国体」は、天皇を含めた国全体である。天皇は、国体の中で、権威として存在し、国土の安寧と五穀豊穣を祈念する大神主という存在であり、かつ、国を代表する元首である。民のやすらかな生活を祈念し、一方、民は天皇を敬愛するという関係にある。

「国体」と「政体」と区別、つまり「権威」と「権力」を分けるという知恵が、天皇という特別の存在であり、日本という国を安定させている理由である。
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