犀川の河川整備を考える会

犀川の辰巳ダム建設を契機に河川整備を考え、公共土木事業のあり方について問題提起をするブログ。

【日々是好日なり】旧日本軍「731部隊」のパネル展が

2022年07月31日 | 日々是好日なり
 石川県庁1階で開催されている。
「県平和委員会などの有志でつくる実行委員会」による。

「戦時中に中国で人体実験を重ね、細菌兵器開発をもくろんだ旧日本軍七三一部隊」とあるが、人体実験や細菌兵器開発をしたということはいまだに不明だ。単に防疫の任務についていただけなのではないかという疑問はぬぐえない。

 戦後、進駐した米軍は、この部隊が細菌兵器開発に関わる有用な情報を持っているのではないかと考えて、10万頁に及ぶ大量の文書の接収、関係者の尋問を実施した。これらの文書は、50年後の2007年に公開された。人体実験や細菌兵器開発の証拠はなかった。

 2000年に設置された「ナチスドイツと日本の「戦争犯罪」を調査をしたアメリカの記録作業部会」も731部隊の人体実験の記録がないことを確認していた。いわゆる慰安婦にかかわる強制連行もまったく同じ流れである。

 だが、日本軍が悪かったとする平和活動家にすれば、このような情報は採用しない。文書は秘密裏に廃棄されたに違いない、疑惑はますます深まったとしか、受け取らない。77年経過した今日、戦後、証拠隠滅を図ったとされる金沢市内の拠点が見つかったとか、とにかく、「秘密裏に廃棄されたに違いない」とか「証拠隠滅を図った」とかいう思い込み?を立証することに熱心である。
 特に、731部隊長の石井四郎中将が第四高等学校(金沢)出身と縁があることから、金沢の平和主義者や活動家の間では七三一部隊の問題を追及する機運が高い。
 
 中国、朝鮮半島の人たちが犠牲になった、日本軍が悪いことをした、という結論が最初にあるので、何を言っても聞く耳をもたない。
 さすが、いわゆる慰安部問題、南京大虐殺、三菱鉱業端島炭鉱の強制労働問題などは、日本国内では、でっち上げの嘘話だという認識が広まってきた。
 731部隊は、森村誠一の「悪魔の飽食」でノンフィクション風に取り上げられて以来、まだまだ、平和運動のネタとしては効果的のようである。

 これらのパネル展では、結論が決まっていて、これに沿うような客観情報、データ、意見を集めて展示する。曖昧で疑わしい意見や証拠でも結論を補強するものはすべて採用する。
 一方、結論と対立するような証拠や客観情報は展示しない。結論と異なる意見や証言は信頼できそうであっても採用しない。
 教授などの肩書の演者が説明すると、いかにも客観的な調査、研究に基づいた信頼ある考えというふうに受け取られるが、単なるプロパガンダにすぎない。

 付言すると、中国はこのプロパガンダに熱心である。
 ハルピンにこの件を取り上げた「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」がある。
 さらに付言すると、1930年代に米国で、蒋介石ならびに妻の宋美齢らによって、中国は被害者、日本は残虐な侵略者という宣伝を巧みにされて、日本人は残虐であると米国人に刷り込まれてしまった。その影響で、米軍の占領政策で、良心的な日本人ほど日本人は残酷だったと洗脳された節がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【日々是好日なり】滅私奉公の精神が成立していた社会

2022年07月30日 | 日々是好日なり
 戦後、西欧の文化の影響が強くなって、日本人は、個性尊重、自分らしく、自分を大切に、などと個人、一人一人の人間性が大事と強く意識するようになった。
 米国主導の日本国憲法に
「すべての国民は、個人として尊重される。、、、、。」(日本国憲法第十三条)
とある。

 現代のわれわれが日本国憲法を読むと、戦前には、個人として尊重されていなかったかのような印象をもつ。
 確かに米国との戦争中は、国家存亡をかけ、国民総動員した総力戦であったので、個人の自由は制限されるのは当然であった。戦争が終わってこの拘束から解放されて世の中が明るく感じたのは当然であろう。それは、相手の米国民も同じである。アメリカのお陰だ、日本が悪かったという話ではない。

 戦後、米国の占領統治の政策もあって、日本人はすっかり騙されてきた。
 「滅私奉公の精神」、「自己犠牲の精神」などは封建的で社会が個人を拘束して自由を奪っていた、一方、米国がもたらした「個人主義」は民主的で個人を自由にし、幸福を追求する権利をもつことができて日本人は幸福になったとも考えるようになった。

 なりゆきとして、日本人は、個人と社会が別物で、
 国は個人の自由を奪い、拘束するので「悪」だ。
 個人が尊重され、自由にふるまうことが「善」だ。
 さらに、個人と社会(会社など)とどちらが大切か、個人の自由を優先するべきだ。
 などとも誤解した。

 欧米人は人々と国は別物で、国が悪だなどとは考えていない。
 悪は、民衆を弾圧し迫害する王様であり、フランス革命ではこれを排除して個人の自由を取り戻し、民衆が国をつくった。民衆がつくった国が悪者であるはずがない。

 一方、わが日本では、まったく逆で、民衆を迫害する独裁はなじまず、王の代わりに「おおきみ」がいて人々は「おおみたから」と大切にされてきた。二千年、続いてきたのは、この関係が安定的に保たれていた証である。安定していたからこそ、滅私奉公の精神が成立する。つまり、私を意識しないで尽くすことが結局は自分に返ってくる、「情けは人の為ならず」、情けは結局自分に戻ってくるという公平で平等な社会であったからである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【日々是好日なり】公(おおやけ)と私(わたくし)

2022年07月29日 | 日々是好日なり
 「個」と「全(社会)」を言い換えると、「私(わたくし)」と「公(おおやけ)」である。
 公を辞書で引くと
 ①政府、国家。
 ②個人に属さず、社会のものであること。
とある。
 日本人が普通に考える「公」は、人々を統治する組織である政府であり、お上である。伝統的に人々の信頼は厚い。
 人々の一人一人である「私」とは、全く別物として認識している。
 「公」という箱と「私」という箱が別にあるとでも。

 欧米の人々はどうだろうか。
 「公」は、英語で「public」、辞書を引くと、
  the people in general
 で、一般大衆、民衆、あるいは集団の人々という意味となる。
 日本人のように、自分とは別の存在である「お上」という感覚はない。
 どちらかといえば、「公」という箱の中に「私」が一杯、詰まっているとでも。

 思うに、77年前、アメリカ軍が日本列島に乗り込んできて、日本は侵略戦争だった、アメリカは正義の戦いだったという歴史を日本人は強要された。
 アメリカ軍が巧妙だったのは、「公」と「私」を別物と認識する日本人の特徴をうまく利用したことだ。
 いわく、日本国民は悪くない、悪いのは「お上」だ。
 日本政府の指導者が誤った方向に導いた、日本軍が悪かった、戦争責任があるのは昭和天皇だなどなど。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【日々是好日なり】ワクチン接種も「個」と「全(社会)」を考える良い例か

2022年07月28日 | 日々是好日なり
 ワクチン接種をする気は無かったが、結局、打つことにした。
 「個」を優先するのではなく、「全(社会)」を優先しようと思ったためである。

 そもそも、今回のコロナウィルスはマスコミで大騒ぎをするので誤解されているが、ウィルスはペストやコレラのような、強力な病原菌ではない。無生物の”かけら”に過ぎない。人の細胞に取り付いて悪さをしても、人は生まれながらにこれに対抗して抗体ができるようになっている。だから、インフルエンザのウィルスに取り付かれても静養していると自然治癒する。コロナウィルスといっても、インフルエンザの一種と考えても間違いないだろう。

 当方は、インフルエンザなどのウィルスに感染しても一晩、布団をかぶって寝ていたら回復する、抗体ができやすい体質である。生まれてこのかた、ワクチンを打ったことがなかった。だが、老齢のため、感染した時に抗体の出来るスピードが遅く、体内で増殖したウィルスを感染源としてまき散らすことになりかねない。周囲に迷惑をかけない、「全(社会)」を優先してワクチンを打つこととした。

 表向きの建前もあるが、このコロナウィルス騒動の中で、ワクチンを打たずに感染源になろうものなら、村八分になりかねないという懸念もあった(^_^;) 「個」の利益を優先したことになるのかな(*^_^*)
 けれど、三回目まで打って、四回目はさすがにもういいだろうということで止めた。

 ワクチンは、いうまでもなく、本物の効き目を薄くしたウィルスを打ち、軽度の病気にした上で体内に抗体をつくらせ、あらかじめ防御する体づくりをするものである。人によっては、抗体ができない、あるいはできるスピードが遅くてウィルスの増殖がすすみ、防御態勢が出来きないと体調不良となり、はては命を落とすこともある。
 特に今回のワクチンは、急遽、短期間に遺伝子操作でつくられた新種のワクチンであり、従来のワクチンの概念を超えるもので、長期的な危険性についてもわからないものである。
 左様にワクチンにはリスクがある。

 ただ、リスクの大小は、若者と老人とにわけると明らかな違いがある。
 老人は、抗体ができにくい、さらに持病持ちで不健康な人が多いので罹ると重症化しやすい。重症化しないように、一般的にワクチンを打つ方が、若者に比べてリスクが小さくなる。
 一方、
 若者は、抗体ができやすい、さらに持病がなく健康な人が多いので罹っても軽症あるいは無症状になりやすい。だから、一般的にワクチンを打たない方が、老人に比べてリスクが小さくなる。
 したがって、「個」の視点からは、若者あるいは健康な老人はワクチンを打たない方がリスクが小さい。

 だが、「全(社会)」の視点から、感染拡大による社会の混乱を最小化するために、「個」のリスクよりも「全(社会)」のリスクを優先して考えて、「全(社会)」のリスクを小さくしたいので、ワクチン接種をするように誘導することは当然である。

 付言するに、ワクチンによる副反応被害を国が補償したことは無いように、すべて一人一人の状況が異なる「個」のリスクを「全(社会)」が負担することは、現実的にできない相談であるので、強制することはできないといったところだろうか。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【日々是好日なり】「個人主義」について考えてみた

2022年07月27日 | 日々是好日なり
 個人主義というからには、社会全体よりも個人を優先するというニュアンスがある。
 それで、ある人たちは、
 足を引っ張るだけの身勝手な「個人主義」を持ち出す。
 自分のことだけを考えて「何をするのも俺の自由だ」と主張する考え方になる。
 他人の利益を考えない、身勝手な考え方なので、他人の利益とぶつかるだけで社会を不幸にする。
 「利己主義」というもので、悪い「個人主義」である。

 一方、良い「個人主義」は、活力ある社会にする。
 従来の社会全体の考え方や常識にとらわれず、個人個人が自由に考え、行動することをよしと主張する考え方。
 様々な能力を有する個人個人の自由な活動を最大限許容し、その能力を最大限に発揮できるようにすることで活力ある社会に導くことができる。

 制約が多ければ人は萎縮する、制約が少なければ人は活発になる。とはいうものの、個人個人が良かれと思って勝手に思い思いの方向に進めば、みんなが望む方向、つまり社会全体が物心両面で豊かで楽しく暮らせる社会ということに必ずしもならないだろう。

 社会は個人の集まりであり、個人と社会は別物ではない。、
 個人が自由に考え、行動し、何事かを実現できるのは、社会全体の支えがあってはじめてである。なにもかも自分一人でできるものではないことは、考えるまでもなく明らかである。

 結局は、「個」と「全(社会)」は、表裏一体のものといってほぼ間違いないだろう。「個」は「全(社会)」に調和する形で自律的にそれぞれが方向修正してくれるのが望ましい。だから、「個」は「全(社会)」と調和する人になってもらわないと困る。
 そんなことは逆立ちしてもむりかなあ~。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする