犀川の河川整備を考える会

犀川の辰巳ダム建設を契機に河川整備を考え、公共土木事業のあり方について問題提起をするブログ。

遠くて身近なこと>近所の知り合いのご賢弟の活動―チベットの焼身抗議―

2015年11月21日 | その他
 近所に夫婦ともども仲良くしている方がいる。10年以上のおつきあいである。その方のご賢弟は、数十年来、インド国内のチベット亡命政府所在地に家族共々移住してチベットの自由のための活動を支援されているという。

 毛沢東が「チベットの解放だ」と称してチベット侵略してから半世紀以上、経過している。ダライラマの来日やペマギャルポさんの話などでチベットの人権弾圧、文化や環境破壊などの情報は耳にしていたが、遠い話だった。アメリカもイギリスもフランスもドイツも最近は中国のチベット弾圧を批判しなくなった。

 日本は逆だ。意志を発信できるようになってきた。尖閣での挑発的な活動、沖縄や安保関連法案での工作活動、北海道などの水源地買収、新潟の広大な公使館用地買収などなど、中国の対外的な横暴さに日本人が覚醒をはじめたからだと当方は考えている。

 折りも折り、粉骨砕身して中国に抗議をしている日本人がいるのは頼もしい。それも身近な人だ。特に焼身抗議に焦点をあててブログ発信されていて、この活動を取り上げて制作された映画「ルンタ」が全国で上映されている。その記事が、今日の産経新聞に紹介されている。
http://www.sankei.com/premium/news/151121/prm1511210030-n1.htmlチベットの焼身抗議の実態をブログで伝える建築家 中原一博氏が情報統制の恐怖を語った…

 焼身による抗議はむなしい。わずか2万人の中国の軍隊に国土の蹂躙を許したチベットの轍は踏んではならない。


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辰巳ダム裁判>控訴審判決の感想

2015年11月12日 | 辰巳ダム裁判
 裁判所は、「控訴を棄却する」と判示し、控訴した原告は、「不当判決だ」と反発し、控訴された国は、「主張を認めていただいた。今後も適正な業務に努める。」と引き取る。ほとんど99%筋書き通りである。

 司法の場では、法律論上の観点から、行政の裁量の逸脱・濫用を裁判官に認めさせるのは超一流の学者/技術者でも困難だろうから、気持ちだけは自称一流で技術は二流の当方には荷が重い。しかし、法律論上で全力を尽くしてくださった弁護団の先生方には感謝であるが、当方としては負けてがっくりというわけもない。

 この辰巳ダム裁判を通じて再確認したのは、辰巳ダムはダム問題の総合デパートであることに加えて、国の治水行政の縮図であるということである。
 
 基本高水の決め方を通じて、犀川の治水を見る。
 犀川には、3つの治水ダムがある。一つ目は、昭和40年度完成の犀川ダムである。既往最大洪水を基本高水として計画された。二つ目は、昭和49年度完成の内川ダムである。超過確率概念を入れて100年確率値を基本高水として計画された。三つ目が、平成23年度完成の辰巳ダムである。これも内川ダムと同様に100年確率値を基本高水として計画された。

 これらの計画の相違は、一つ目のダムは、過去の一つの降雨観測記録あるいは流量観測記録だけを根拠としていること、二つ目のダムは、過去の連続した降雨観測記録を根拠としていること、三つ目のダムは、過去の連続した降雨観測記録ならびに流量観測記録を根拠にしていることである。
 超過確率概念導入による基本高水の決め方は、当初、科学的、合理的な目標設定のための手法であったようだが、治水関係者の恣意的な運用でねじ曲げられてしまった。これが、辰巳ダム裁判でのやりとりを通じて準備書面を詳細に読めば、浮き彫りにされると思う。

 現時点で明らかにできることとはつぎのとおりである。
 「新基準」では、過去の連続した降雨観測記録を解析して求めたピーク流量を流量確率評価などで「検証」することを求めている。辰巳ダム裁判では、検証したかどうかが大きい争点であったが、蓄積された観測記録が十分でない、ある程度の正確さで推定できないので、流量確率評価の検証はしなくてもよいと判示された。毎年の最大値が30~40年分の蓄積が必要だが、辰巳ダム計画時点では、20数年分しかなかったというものである。ちなみに、内川ダム計画時点では、流量観測記録は無い。
 
 流量観測記録は年々、蓄積されていく。裁判が長期化すればするほど蓄積する。辰巳ダムが供用開始する前年の平成23年には、年最大流量の観測記録が34年分蓄積した(辰巳ダム運用後は犀川大橋地点のダム調節無し流量の計算がより複雑になるので入れていない。平成27年までに統計を左右するほどの大きな雨はない。)。このデータで流量確率評価をした証拠を裁判所へ提出し、国が主張している基本高水ピーク流量1750m3/秒は、100年確率値ではなくて、2000年確率値であることを示した。これに対して、国は、独自の考えにすぎないと反論しただけである。自ら、データで流量確率評価をして反論していない。ましてや、控訴人の主張は、誤りだとも言っていない、単に独自の考えだと指摘しているにすぎない。というよりも、こちらの考えを認めたといっても過言ではない。

 34年分の年最大流量から流量確率評価の100年確率値は900m3/秒強である。20世紀の100年間に起きた最大規模の洪水とも近似しており、住民の実感とも一致するものだ。裁判で過大な想定洪水ではないとの判示がくだされても、法律論上の判断であり、現実的、技術的判断は、過大な想定洪水である。

 裁判では、平成19年の国の事業認定処分が違法か違法でないかを争っているだけで、基本高水が現実と一致して妥当かどうかは別のものである。かりに、平成27年現在で国の事業認定処分が違法かどうかの判断を仰いだとしても、比流量(検証のようで検証でない)による検証をしていると主張しているので、法理論上は違法ではないのだろう。

 「それでも地球はまわっている」ではないが、1750m3/秒が100年確率と言っても過去100年間で900前後の洪水しか発生していない。河川整備検討委員会の玉井教授は、100年確率の洪水は100年間で1回よりももう少し多い頻度で発生すると説明していたが。
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辰巳ダム裁判>新基準の最大の問題のひとつ

2015年11月08日 | 辰巳ダム裁判

 基本高水にリアリズムが無くなったのは、「新基準」の基本高水の決め方で、ハイドログラフ群の中の最大値を取ることにしたからだ。「旧基準」では、カバー率50%値以上で慎重に決めるということになっていたから、現実との調整とも可能だった。

 「標準的な棄却も行ってなお生き残った最大値としての基本高水流量を無視することはできない」(辻本教授)というわけである。「旧基準」においても同様に棄却を行っていたのだから、「旧基準」では生き残った最大値を無視していた(カバー率50%値以上)のだから、いまさら、こんなことは言い訳にしかすぎない。理屈のあるような、ないような、大学教授の弁とも思えない。

 最大値を決めるための棄却基準の決め方が「基準」で明記されていないので始末がわるい。辰巳ダムでは、棄却基準(3時間雨量)が、LN3Q分布142ミリ、グンベル分布126ミリと違い、大したことがないように見えるが、これで辰巳ダム2個分ほどの違いがでてくる。12分布中のもっともバラツキが多くて誤差の大きい分布を採用すると、142ミリとなるのだ。11分布が支持していない分布であるが、一つでも引っかかると合理的な可能性があるとがんばられるとなかなか否定できない。

 その上に、「安全側を取る」(基準の記載にはこのような判断はでてこない、行政的な判断の範疇か)、「治水の課題が安全側に偏るのは行政責任上当然のことと判断した」(辻本教授、学識経験者としての技術的判断を求められているはずだが、行政判断を積極的に言及する)などの発言が後押しをする。

 このように、冷静に考えるとバカバカしい議論があって、「合理性がないとはいえない」などという司法判断がなされるのである。

 このような科学的な装いをしながら非科学的な手法をとるよりも、統計的な手法で中央値、中位数、あるいは平均値などを取るという手法のほうが、まぎれが少なく、恣意的な要素が入りにくい。
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辰巳ダム裁判>司法の場で基本高水の妥当性を争うことに無理があるが

2015年11月07日 | 辰巳ダム裁判
 裁判の議論では、当然ながら、裁判官は技術に関して素人であり、判断できないので、学者のお墨付きがあるかどうかが採用のポイントとなる。学者の立証がないと、単なる独自の考えとなり、採用されない!

 辰巳ダム裁判も一言で言えば、学者の立証がある基本高水1750(辰巳ダムの根拠)が採用され、原告の主張(過大だ!)は棄却されることになる。

 国の主張は(学識経験者のお墨付きをもらった)「基準」/「マニュアル」によって求めた(記載されていないところは裁量で)もので妥当なものであり、原告の主張は(誰のお墨付きもない)独自の考え方で信頼できないというものである。だから、100年確率の基本高水1750m3/秒は妥当で、原告の主張する100年確率値900m3/秒程度というのは信頼できないというものである。
 
 現実は、原告の主張どおりであり、20世紀100年間の実績がこれを示している。国の主張はまったくリアリズムがない。リアリズムのない治水などあるわけがないはずである。なぜ、このようなことになるのか。基本高水は、河道とダムに配分される。基本高水が大きくなると、河道は制約があるので、自動的にダムに配分され、さらなるダム築造の根拠となる。過大な基本高水はダム建設のための打ち出の小槌となる。ダム建設が治水の目的になっている。

 犀川の3つ目の治水ダムである辰巳ダムは、きっかけは、橋代わりのダムであり、洪水氾濫による、現実的な治水対策にせまられてのものではない。それ以前の犀川ダム、内川ダムは、昭和27,28年の洪水氾濫があってこれを防止するために、計画され、築造されたものである。

 リアリズムのない治水に導く、大きい要因は、超過確率概念を取り入れた基本高水の決め方によるものである。犀川では、最初の犀川ダムは既往最大洪水で計画された。2つ目の内川ダムは超過確率概念による100年確率の基本高水をもとに計画されたものである。3つ目の辰巳ダムは新たな降雨データが得られたと称して、再び100年確率の基本高水をもとに計画されたものである。2つ目の内川ダム時点の基本高水も現実感の薄いものであったが、辰巳ダムでさらに現実感がなくなった。
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辰巳ダム裁判>控訴審判決言い渡しが迫る

2015年11月06日 | 辰巳ダム裁判
ひっくり返すことはできそうもないが!

 11月9日(月)午後1時半、辰巳ダム裁判、控訴審判決言い渡しがあります。

 一審判決では、原告の主張が採用されず、国の反論が採用されました。そのため、控訴審では、こちらが証拠を示して主張し、これを立証するため、証人をたてて証言をしてもらうことが必要でした。そのために、証人を立てたのですが、一審と同じ証人(大学教授等)のため、裁判所で採用されませんでした。治水では、統計学的な分野、地すべりでは、地すべり鑑定、などの証人確保を目指しましたが、残念ながら、達成できませんでした。控訴側に立証責任があるため、実質的な立証ができず、厳しい判決言い渡しとなることが、予想されます。
 しかし、この辰巳ダム裁判は、もともと、行政の裁量を問題にした裁判であり、「基本高水」(想定洪水)が過大だ、その過大を根拠にした辰巳ダム建設は、造る意義がない(無駄だ)というものです。つまり、行政の裁量による、基本高水の決め方が杜撰で裁量が逸脱・濫用で違法だ、と指摘しているものです。
司法は、「専門技術的な判断をともなう裁量を尊重する」という姿勢で、行政の裁量を幅広く認めていますので、争う前から、結果が見えているようなものなので、もともと司法で争うのは、なじまないテーマでした。それを、あえて、真っ正面から取り組み、弁護団の代理人の方々に、「基準に違反して、考慮すべきことを考慮しないで、裁量の逸脱・濫用であり、違法である」という主張で、膨大な資料と準備書面を作成してもらい、戦ってきたものです。
 表面的な成果はほとんどないという結果になることが、予想され、法律論的には、国は違法ではないというになりそうですが、司法が、積極的に辰巳ダムを支持していることにはならず、膨大な議論の中から、一言でいえば、技術的合理性が乏しい、ということが見えてきていると思います。
 例えば、国の主張は、国の基準にしたがい、マニュアルどおりであるが、現実にあっていない、一方、原告の主張は、独自の考えに過ぎないと国が批判するが、現実の現象に合致している、住民の実感とも合っている、というものです。
 ささやかな抵抗ですが、行政のやっていることは適正なことばかりではないので、批判すべきは批判して、行政を質していくべきで、行政に対して少なからぬインパクトは与えていると思います。ひっくり返すというようなことはできなくても、これが、手間暇がかかり、牛歩の歩みの民主主義というものでしょう。
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