犀川の河川整備を考える会

犀川の辰巳ダム建設を契機に河川整備を考え、公共土木事業のあり方について問題提起をするブログ。

【日々是好日なり】宝達金山のつづき

2023年02月28日 | 日々是好日なり
 宝達金山の金採掘量は現在価値にしていかほどか。
 大判にして約3500枚が採れた年もあった。
 大判=小判10枚=10両とすると
 3万5千両である。

 江戸初期の1両=24万円とすると
 3万5千両×24万円/両=84億円
 となる。

 また、現在の金価格1グラム当たり約8千円(=1キログラムあたり約8百万円)として計算すると以下のとおり。
 慶長大判を参考にして、
 一枚重さ164.9グラム×金含有率71%=一枚の金含有量117グラム
 3,500枚×117g=410kg
 410キログラム×800万円/キログラム=33億円
 となる。

 加賀藩の財政規模を表す石高は、加賀100万石である。
 四公六民として藩の収入は40万石となる。
 江戸期を通じて1石がおおよそ1両※ とすると
 40万両となり、採掘した金の3万5千両は約1割にあたる。
 最も採掘が多かった年のことであるにしても大きな収入である。

 加賀藩のみならず、戦国時代後期から、全国各地で鉱山開発が競って行われた。
 能登、加賀では宝達の他に、尾小屋(大谷,金平)鉱山、倉谷(くらたに)鉱山で採掘された。
 しかし、いずれも金の採掘についてはほとんど成果がなかった。
 尾小屋(大谷,金平)鉱山は主として銅の採掘、倉谷鉱山は一時的に金が算出したが、主に銀山として寛永期に最盛期を迎えたという。

 宝達鉱山は、1628年(寛永5年)に坑道12箇所の崩落により閉山した。
 ここで採掘していた人たちは失業したが、トンネル掘削などの土木技術を持っていたので加賀藩内の道普請、川普請の土木工事をすることになった。
 「黒鍬(くろくわ)者」※2 と言われ、加賀藩内では土木作業に従事する者に宝達出身のものが多く、土木作業者を「宝達者(ほうだつもの)」とも言った。 
 前年の大火のため、1632年(寛永9年)に急いで築造された辰巳用水にも従事した。

※「幕府張紙値段」旗本・御家人が俸禄の米を現金化するときの幕府公定価格。
※2 土木作業を行う者のことで、使用していた道具の鍬が、黒鍬(くろくわ)といわれるもので、刃が厚く幅が広く、柄が短く太く、強く打ちおろすことができる鍬のことで、柄が黒く塗ってあった。
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【日々是好日なり】黄金(おうごん)の国ではなく、白金(しろがね)の国だった

2023年02月27日 | 日々是好日なり
 佐渡は古来から「金の島」と呼ばれたようだが、金とともに銀が採掘された。
 78トンの金と2,330トンの銀を産出されたという。
 銀は金の約30倍の量である。

 石見銀山は有名だが、当時、銀山が多くあった。
 生野銀山(兵庫)、半田銀山(福島)、院内(いんない)銀山(秋田)など。

 石見銀山の紹介ホームページによれば、
 「一大銀産出国・日本の実態を物語る驚くべき試算があります。江戸初期の17世紀初め、日本から※ 輸出された銀は年間約150~190トンに上るのです。当時、世界全体の銀の産出量は約600トン。照合すれば、日本銀が実に世界の銀の3分の1を占めていたのです。同時期の石見銀山の推定年間産出量は約40トンで、石見銀が日本の輸出銀のかなりの部分を占めていました。

 とある。
 
 黄金(おうごん)の国ではなく、白金(しろがね)の国だった

※ [輸出銀]日本の銀は、大量に九州から朝鮮半島や中国に運び出され、ヨーロッパの中でもいち早くアジアに進出したポルトガルによって世界貿易で使われた。ポルトガル船は東アジアに来て、中国の生糸や絹織物を日本に輸出し、その代金として日本銀を受け取っていた。
 http://www1.pref.shimane.lg.jp/contents/kochokoho/photo/145/01b.html#:~:text=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%88%9D%E6%9C%9F%E3%81%AE17%E4%B8%96%E7%B4%80,%E9%87%8F%E3%81%AF%E7%B4%84600%E3%83%88%E3%83%B3%E3%80%82
 http://www1.pref.shimane.lg.jp/contents/kochokoho/photo/145/01.html
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【日々是好日なり】黄金の国ジパング

2023年02月26日 | 日々是好日なり
 14世紀に著されたマルコ・ポーロの『東方見聞録』で日本は莫大な金を産出する国だと紹介されて「黄金の国ジパング」と呼ばれた。
 中尊寺金色堂の様子が噂となって伝わったことも影響したらしい。
 しかし、江戸期の日本の金の年間採掘量は、0.4トン程度に過ぎなかった。
 現在でも日本の年間の採掘量は、8トンほど。

 ちなみに
 現在の世界の年間採掘量は、2,500~3,000トン。
 今までに採掘された総量は、約17万トンで、残りは、約6万トンという。

 日本に金が特別多く埋蔵されていわけでなかった。
 単に、
 金鉱石1トンあたりに含まれている金は2~10g程度と微量だから、むかしむかしの技術では簡単に手にいれることができなかった。
 100万分の2~10とわずか。

 日本のところどころの川で砂金が採れることもあった。
 金沢も中心部を流れる「犀川」で砂金が採れた。
 「金洗い沢」から、「金沢」となった。
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【日々是好日なり】宝達金山とは

2023年02月25日 | 日々是好日なり
 石川県の中央あたりに標高637mの宝達山(ほうだつさん)がある。
 戦国時代の末期から江戸時代の初頭にかけて金が掘られていた。
 天正12(1584)年に開山、1628(寛永5)年の大規模な崩落事故が発生するまで45年ほど。
 加賀藩の財政を支えた時期があった。
 大判にして約3500枚が採れた年もあったという。
 慶長大判の金含有量(164.9グラム×0.71=117グラム)を参考にすると、
 3500枚×117g=410kg
 である。
 仮に、年間0.41トンの金が採掘されたとすると45年間で
 0.41×45=18.45トン
 となる。

 日本最大級の金山である佐渡金山では、
 1601年に発見され、開発が進み、約400年もの間に採掘された金の総量はおよそ78トンという。
 1年に採掘された金の量は平均で
 78トン÷400年=0.195トン/年=195kg
 である。
 日本全国で年間400kgほどの採掘され、そのうちの半分ほどが佐渡金山からだったようである。

 宝達金山の金の採掘量は、一時は佐渡金山に匹敵するほどの金山だった。
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【日々是好日なり】日本は、豊葦原瑞穂国

2023年02月24日 | 日々是好日なり
 日本は、豊葦原の瑞穂の国(とよあしはらのみずほのくに)である。
 お米の国である。
 江戸期にほぼ確立。
 戦国の世が治まり、江戸期に入ってまもなく、
 田畑の開墾が進み、200万町歩の水田から、2,000万石の米を収穫し、2,000万人の人口を養った。
 200万町歩 →2000万石 →2000万人
 江戸期の終わりには、300万町歩、3,000万石、3,000万人となった。
 300万町歩 →3,000万石 →3,000万人 
 
 1町歩(=1ヘクタール=1万平方メートル)の水田から10石(=1500kg)の米を収穫して10人を養った。
 主食が米であり、一人が年間に米を1石消費した。 
 水田面積、米の収穫量と人口がほぼ一致している。

 明治に入ってからは水田面積はほぼ同じで変動が少ないが、単位収量が2~3倍※ に向上して米の収穫量(万石)は増加し、比例して人口(万人)も同様に増加している。
1883(明治16)、257万ha、457万トン(3,050万石)、3,757万人
1933(昭和8)、302万ha、1,044万トン(6,960万石)、6,743万人
1945(昭和20)、280万ha、582万トン(3,880万石)、7,215万人
1967(昭和42)、315万ha、1,426万トン(9,507万石)、10,020万人
2020(令和2)、146万ha、776万トン(5,173万石)、12,630万人
 
 明治以降は、米の輸入も行われるようになったので米の収穫量と人口との差も見られるが、昭和42年頃までは米の収穫量と人口が同じように推移している。
 1945年は、終戦の混乱で飢餓状態となった。
 2020時点では、食の多様化もあって米の収穫量と人口が一致していない。

※ 1町歩は10反、反当り1石(150kg)から2石(300kg)、3石(450kg)、3.5石(525kg)と収量が向上している。
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