宝達金山の金採掘量は現在価値にしていかほどか。
大判にして約3500枚が採れた年もあった。
大判=小判10枚=10両とすると
3万5千両である。
江戸初期の1両=24万円とすると
3万5千両×24万円/両=84億円
となる。
また、現在の金価格1グラム当たり約8千円(=1キログラムあたり約8百万円)として計算すると以下のとおり。
慶長大判を参考にして、
一枚重さ164.9グラム×金含有率71%=一枚の金含有量117グラム
3,500枚×117g=410kg
410キログラム×800万円/キログラム=33億円
となる。
加賀藩の財政規模を表す石高は、加賀100万石である。
四公六民として藩の収入は40万石となる。
江戸期を通じて1石がおおよそ1両※ とすると
40万両となり、採掘した金の3万5千両は約1割にあたる。
最も採掘が多かった年のことであるにしても大きな収入である。
加賀藩のみならず、戦国時代後期から、全国各地で鉱山開発が競って行われた。
能登、加賀では宝達の他に、尾小屋(大谷,金平)鉱山、倉谷(くらたに)鉱山で採掘された。
しかし、いずれも金の採掘についてはほとんど成果がなかった。
尾小屋(大谷,金平)鉱山は主として銅の採掘、倉谷鉱山は一時的に金が算出したが、主に銀山として寛永期に最盛期を迎えたという。
宝達鉱山は、1628年(寛永5年)に坑道12箇所の崩落により閉山した。
ここで採掘していた人たちは失業したが、トンネル掘削などの土木技術を持っていたので加賀藩内の道普請、川普請の土木工事をすることになった。
「黒鍬(くろくわ)者」※2 と言われ、加賀藩内では土木作業に従事する者に宝達出身のものが多く、土木作業者を「宝達者(ほうだつもの)」とも言った。
前年の大火のため、1632年(寛永9年)に急いで築造された辰巳用水にも従事した。
※「幕府張紙値段」旗本・御家人が俸禄の米を現金化するときの幕府公定価格。
※2 土木作業を行う者のことで、使用していた道具の鍬が、黒鍬(くろくわ)といわれるもので、刃が厚く幅が広く、柄が短く太く、強く打ちおろすことができる鍬のことで、柄が黒く塗ってあった。
大判にして約3500枚が採れた年もあった。
大判=小判10枚=10両とすると
3万5千両である。
江戸初期の1両=24万円とすると
3万5千両×24万円/両=84億円
となる。
また、現在の金価格1グラム当たり約8千円(=1キログラムあたり約8百万円)として計算すると以下のとおり。
慶長大判を参考にして、
一枚重さ164.9グラム×金含有率71%=一枚の金含有量117グラム
3,500枚×117g=410kg
410キログラム×800万円/キログラム=33億円
となる。
加賀藩の財政規模を表す石高は、加賀100万石である。
四公六民として藩の収入は40万石となる。
江戸期を通じて1石がおおよそ1両※ とすると
40万両となり、採掘した金の3万5千両は約1割にあたる。
最も採掘が多かった年のことであるにしても大きな収入である。
加賀藩のみならず、戦国時代後期から、全国各地で鉱山開発が競って行われた。
能登、加賀では宝達の他に、尾小屋(大谷,金平)鉱山、倉谷(くらたに)鉱山で採掘された。
しかし、いずれも金の採掘についてはほとんど成果がなかった。
尾小屋(大谷,金平)鉱山は主として銅の採掘、倉谷鉱山は一時的に金が算出したが、主に銀山として寛永期に最盛期を迎えたという。
宝達鉱山は、1628年(寛永5年)に坑道12箇所の崩落により閉山した。
ここで採掘していた人たちは失業したが、トンネル掘削などの土木技術を持っていたので加賀藩内の道普請、川普請の土木工事をすることになった。
「黒鍬(くろくわ)者」※2 と言われ、加賀藩内では土木作業に従事する者に宝達出身のものが多く、土木作業者を「宝達者(ほうだつもの)」とも言った。
前年の大火のため、1632年(寛永9年)に急いで築造された辰巳用水にも従事した。
※「幕府張紙値段」旗本・御家人が俸禄の米を現金化するときの幕府公定価格。
※2 土木作業を行う者のことで、使用していた道具の鍬が、黒鍬(くろくわ)といわれるもので、刃が厚く幅が広く、柄が短く太く、強く打ちおろすことができる鍬のことで、柄が黒く塗ってあった。