犀川の河川整備を考える会

犀川の辰巳ダム建設を契機に河川整備を考え、公共土木事業のあり方について問題提起をするブログ。

辰巳ダム裁判>裁判に対する期待と誤解(2)

2018年04月24日 | 辰巳ダム
 辰巳ダム建設事業は石川県が実施する事業で決定権は石川県知事が持っている。ダム建設を阻止するためには、住民はダム建設を推進しない知事を選べばよい。多数の住民の支持があれば阻止できる。
 しかし、辰巳ダムの場合は、住居の水没はなく住民の生活にほとんど影響がないなど、多数の住民の支持を得るには難しい状況にあった。
 当初、ダム立地で辰巳用水東岩取入口が水没して歴史的文化遺産が毀損することなどのため、知事も一時、中止の意思表示をしたことがあったが、ダム本体の立地を変更したことなどでダム建設反対の民意は盛り上がりを欠くことになった。ダム建設反対の住民運動は、ダム建設の阻止には至らなかった。
ダム建設反対の場は、行政から司法に移ることになった。世論の力、多数の住民の支持を得なければならない状況は、「司法の場」でも変わらない。多数の住民の支持があってはじめて、司法から見て巨大な行政に対して、裁判長は“行政に物申す”ことができるのであり、いわゆる良い判決が出しやすくなるだろう。
 本裁判では、原告団を少人数することで裁判にかけるエネルギーを節約したが、並行して世論を高めるということにはマイナスであり、それが傍聴者数にも表れた。このような事情もあり、判決内容は住民の主張はまったく採用されず、被告(国・石川県)の主張が全面的に採用された。
 徒労に終わったことになるが、裁判に持ち込み、行政の行き過ぎを批判しないと司法も変わらず、行政も変えることはできない。
 大気汚染、水質汚濁などの環境問題については、まず世論が高まり、司法が先行し、行政が後から追いついてきて、そして立法された。その後、司法が遅れるようになって環境破壊がひどくなったことがあるのではないか。
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辰巳ダム裁判>裁判に対する期待と誤解

2018年04月23日 | 辰巳ダム裁判
 「悪法も法なり」という。法治国家の原理原則である。これは悪法だから、守らなくてもいいとなったら、社会が混乱する。改正するまでは守らないといけないのである。法は社会を安定させるための手段である。
 逆にいえば、安定させるために必要であったから、法ができる。

 河川法は、豪雨の際には川の流れの氾濫を防ぎ、平生は川の水を利用し、川の環境を活用するために、川を改造して制御する必要があったので作られた法律である。
 必要がなくなれば改正あるいは廃止される。
洪水氾濫がなくなり、水余りになれば、少なくとも川を改造する必要はなくなる。

 原告(住民)は、氾濫もない、水も余っているから、辰巳ダムはいらないと異議申立をした。一方、被告(国・石川県)は、氾濫する危険がある、水あまりはないと主張した。

 裁判所は、判示する前提として、「事柄の性質上極めて政策的、専門技術的なものであって、(国・石川県の)裁量を尊重して判断する」と宣言している。「社会通念上著しく不相当な点」があれば別だがなどと条件はつけているが、最初から行政側に軍配をあげることを示唆している。

 であるから、原告・被告双方の主張を聞き、双方の証人喚問による立証をさせるが、最初から結論は決まっている。裁判所は、被告(国・石川県)の主張を採用し、原告の主張には理由がないので請求を棄却すると判示する。

 それでは、裁判は意義がないかといえばそうではない。
 法は社会を安定させるための手段である。行政が信頼できないとなると社会が不安定化する。法の本来の目的に沿わないことになる。

 裁判所は法を実現するためのしくみであり、社会を安定化させる役割を担っている。そのためには、事実を無視するわけではないが、軽視せざるをえず、社会の安定を重視するために行政を支持することになる。原告の主張を支持できないとしても、裁判における長時間の陳述を通じて事実を無視できない事情はよくわかっているのである。
 
 行政も司法も巨大な社会的しくみである。急には舵を切れない。

 事実を直視しているのは住民である。いずれ変えていかねばならないのである。司法を変え、立法し、行政を変えないといけない。そのための積み重ねが必要であり、その一環が辰巳ダム裁判である。
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辰巳ダム>過大な基本高水となる理由

2018年04月21日 | 辰巳ダム
 過大な基本高水となる理由は明らかだ。現在のいわゆる「基準」による洪水量計算は、明確に誤魔化しだ。
 科学技術的な解析手法をとるといかにももっともらしく見える。
 概ね100年に1回程度発生する規模の降雨は、例えれば「バケツ一杯の水」だ。ちょろちょろ空けると流れる水は小さい、ドッと空けると流れる水は大きくなる。流れる水が大きかろうが、小さかろうが、何通りあっても「バケツ一杯の水」が100年確率であるから、流れる水は100年確率洪水とする。ドッと空けることを正当化するために確率論を使って誤魔化している。
 辰巳ダムでは33通りから、確率論を使って大きい方から9通りを除いて残った24通りの最大を選んで基本高水を決めている。
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