犀川の河川整備を考える会

犀川の辰巳ダム建設を契機に河川整備を考え、公共土木事業のあり方について問題提起をするブログ。

【日々是好日なり】日本の家族制度の中で、「個人主義」は人々を幸せにするか

2023年08月31日 | 日々是好日なり

 「個人主義」というのは、西欧から持ち込まれて、戦後はやりのイデオロギー。
 個人に何よりも高い価値が与えられる、個人の自由が最大限に尊重されるので、我が強い人によってはとても有難い考え方(-_-;)

 科学技術が進み、人々の豊かさが増した先進国の社会において、
 個人が自由にバラバラとなって、
 人々が放縦で自己本位になり、
 個人を縛る、伝統社会に根ざした習慣、考え方などは敬遠される。
 
 例えば、家族は解体すべきもので、家父長制や結婚儀礼などは個人を家に縛るもので封建的で古い、夫婦別姓でいいなどと主張する者もいる。

 また、伝統社会に根ざした習慣は「歴史的堆積物」という滓であり、古い鎖であり、いずれ、投げ捨てられて、伝統社会に根ざした習慣が消滅することで、伝統社会が解体していくと予測する学者もいる。

 だが、人は社会的存在、生まれ育った国や母国語や家族や組織や社会から完全に自由な「個人」などいない。
 特に、わが国の文化として、特に醸成してきた家族の固い絆の中で育ってきた。

 家族の一員として拘束されていることは、逆の面を見れば、保護されていることであり、物事の裏表である。
 家族の一員として保護されながら、個人の自由を最大限に用いるのが妥当なところだろう。
 伝統的に作ってきたしくみを捨てて、西欧のしくみを安易に取り入れることは慎重にしたほうが良い。

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【日々是好日なり】負の遺産の身分差別

2023年08月30日 | 日々是好日なり

 田舎には、良かれ悪しかれ、伝統的な慣習のみならず、住民の意識の中にも古きものが残っている。
 悪弊を引きずっているとでもいうか。
 その一つに、身分差別意識がある。 

 伝統的に格が高く、有力だった家柄の住人は、いまでも格下だった家の住人対して高飛車な態度、言葉遣いをすることも多い。
 これが、近所どうしのいがみ合いの原因の一つになっている。
 町から移り住んだものには驚きに近い。

 わが子のような年齢の者に、オイコラ呼ばわりをされれば気分がよかろうはずがない。
 冗談のような話であるが、ある保育所の園長先生が、(名家と言われる家庭の)園児に対して「○○ちゃん」と呼んだら、「○○家」と呼べといわれて困ったという。

 『村史』につぎのような一文がある。

 「今日、百姓といえばいわゆる農民一般を指し、農民相互間には何ら身分的差別がない、しかし藩政時代は、あたかも武士達に家柄や禄高によって身分の開きがあったと同様に、農民にも家柄や持ち高による差別があった。
 たとえば百姓といっても、それは農民全部でなく、自分の高(たか、土地)を所有し、それに応ずる年貢負担の義務をもち、検地帳や百姓持ち高帳に持ち高と名前とを記載された、本百姓といわれる農民にかぎられ、自分の高を全く持たない水呑(みずのみ)とか頭振(あたまふり)といわれた農民とは区別されていた。
 また本百姓内部にも持ち高による階層差があって、高所有の如何が村落内におけるすべてを規制していたのであり、村落内での支配層である村役人などはいうまでもなくこれら持ち高いかんの上層の本百姓からでていたのである。
 これに反し無高の農民は、頭振とか水呑とよばれて本百姓より一段低い層とされ、村の寄合いに出ても発言権が無く、また田地の割り替えや入会地などについても権利を認められず請作や日稼ぎで生計を維持しなければならなかった。したがって生活も不安定でいつもみじめな状態におかれていたのである。」

 本百姓も、持ち高によって上家、中家、下家と分けられ、さらに役職ありなしの差もあった。
 幼児も”おぼっちゃま”からそこらの”ガキ”まで身分差別があったか(^^;)
 当地では、世界遺産になるような伝統行事が残っている反面、負の遺産も残っている。

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【日々是好日なり】江戸時代の歴史の嘘

2023年08月29日 | 日々是好日なり

 教科書には、江戸期の農民は、苛斂誅求、年貢の重税に苦しんだという記述がされている。
 
『柳田村史』(p.308-311)にも、
 集落の例をあげて、
 天坂の場合は(本年貢の免が)五ツ七歩となっており、税率は五七%ということになる。
 本年貢(定納)、夫役に代わる貢租、口米を合わせて、七ツ五厘(70.5%)の高い免(税率)となった。
 そして、
 「このように藩政時代の農民の税負担は、まさしく「百姓は生かさぬように、殺さぬように」の支配者の意図が貫かれていたのであり、草高よりいくらか実収量が多かったり、縄伸びもあったとしても、当時の百姓が、いかに重税の下に苦しい生活をしていたかを想像できようというものである。」
 とあった。

 七公三民である。
 収穫した米の7割を公(武士・公家など)召し上げられて、残った3割の米を民(農民を含む百姓)が食べていたと誤解されかねない。
 明らかに誤解を招く記述で、歴史の嘘といっても言い過ぎではない。

 米は、身分の上下に関係なく、殿様も百姓も一人が食べる量はあまり変わらない。
 9割ほどの民(農民を含む百姓)が3割の米を食べ、1割ほどの公(武士・公家など)が7割の米を食べていたはずがない。
 実際には、人口の9割ほどの民(農民を含む百姓)が約9割の米を食べていたのである。

 具体的に言えば、
 自給自足の社会で収穫量=消費量であるから、
 年間に収穫される三千万石の米を三千万人がそれぞれ一年で一石の米を消費していたのである。

※ 「高」とは検地の結果決定された収穫高で、加賀藩では、村全体の収穫高を「草高」といい、草高に課せられる税率を「免」と言う。
※ 夫銀は、藩に提供する夫役に代わる銀納貢租。
※ 口米は、米の目減りや虫喰いの差を見込んだ添米で、収納役人の手数料ともなったもの。

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【日々是好日なり】般若心経(はんにゃしんぎょう)

2023年08月28日 | 日々是好日なり

 たった266文字の短いお経であるが、最も知られているお経。
 膨大な量からなる般若経を要約したもの。
 悟りを開くことができる有難い教えである。
 
 短い文に「空(くう)」と「無(む)」がたくさん出てくる。
 「空」は、7。
 「無」は、20。

 目に見えるもの、感ずるもの、認識する心自体も、何もかも(物体も精神も)実体の「無」いものであり、「空」である。
 すべての存在(私という存在も!)は、因縁によって仮にその姿を現した実体の「無」いものであり、
 絶えず生滅変化するもので常住不変の実体は「無」い。※
 そんな、自分を取り巻く世界のもろもろに、こだわり執着するな。
 そうすれば、悟りの境地に達して苦厄や苦悩から抜け出すことができる。

 分かりやすく言えば、
 もろもろの物が空箱で中身がないということか。
 「空」という概念は何もないということではない、箱が「有」で中身が「無」である。
 だから、「空」=「有」+「無」、
 あるいは、「空」=「1」+「0(ゼロ)」か。
 インドでゼロの概念が生まれたと言うが?
 
※ 宇宙全体を構成する要素(ものも心も)は、絶えず生滅変化するもので常住不変の実体はないとするのが、仏教の根本教説の一つ。
 移ろいゆく世界には何か法則があるのではないか、古代インドの仏教徒たちは「空」と名付けた。
「色即是空(しきそくぜくう)」、色これすなわち空なり、物体も精神も実体のないものであり空である、という宇宙観。

【追記】「空」と「無」、拘るな、執着するな、無私が「東洋思想」で、
 対して、自己主張、一に自分、二に自分、三四がなくて、五に自分が「西洋思想」か。

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【日々是好日なり】天皇制狂信国家になって自滅したかのような歴史認識

2023年08月27日 | 日々是好日なり

 第二次世界大戦で戦争犯罪を犯したのはアメリカであって(非戦闘員の大量虐殺)、
 裁かれるのはアメリカだ。
 これを糊塗するために行ったのが東京裁判、
 アメリカが日本に押しつけた濡れ衣だ(世界の平和を乱した罪)。
 だが、戦後の日本は、
 アメリカ様にお仕置きを受けて180度、宗旨を変えた。
 多くの学者、政治家、マスコミは、表記のような歴史認識となった。
 つまり、神道と天皇が戦争をもたらす、危険な悪と捉える。

 だが、冷静に分析した学者は、指摘する。※
 →神道と天皇崇拝は本来、軍事とは無縁の宗教の伝統であり、戦争の際に、国民を統合するために伝統を利用しただけのことである。
  あらゆるものを総動員する事態に、強固なものが優先して動員されただけのことだ。
  平和の時代には、天皇は軍事的象徴ではなく、神道は戦争に導く宗教でもない。
 
※ (ヘレン・ミアーズいわく)
 神道と天皇崇拝は日本人の国民感情にとって重要な文化と宗教の伝統を表すものだった。
 これは他の民族が固有の文化、宗教の伝統をもっているのと同じ国民感情である。
 伝統の力が強ければ強いほど国家存亡のときには、戦争計画への国民統合に利用される。
 しかし、伝統が戦争の大義なのではない。
 ひとたび戦争が決定されると、伝統は防衛という名の戦争計画の背後に国民を統合するための手段となる。
 そうすることによって為政者は複雑な戦争理由をわかりやすくするのである。
 アメリカも戦争の後ろ盾に国民を統合するため、伝統を利用したのだが、とかくそれが忘れがちだ。
 私たちは民主主義とキリスト教の名のもとに戦った。
 「天皇制」と神道が本来、戦争を内包しているのに対して、民主主義とキリスト教は本来、平和的であると私たちは主張する。
 日本の学童が天皇の肖像に最敬礼したのは、アメリカの学童が「国旗に忠誠を誓う」のと同じ国民的儀礼だが、私たちはそれを見ようとしない。
 私たちの国旗は軍事的象徴ではない。
 それと同じように戦争がなければ日本人にとって天皇は軍事的象徴ではなかった。
 戦争はあらゆるものを動員するだけのことだ。
 歴史的・伝統的に強固なものがあればそれが真っ先に動員されるというだけ、、、、。

 

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