犀川の河川整備を考える会

犀川の辰巳ダム建設を契機に河川整備を考え、公共土木事業のあり方について問題提起をするブログ。

地域起こし>能登町長あてに提案書を提出

2013年03月29日 | 雑談など
 能登町の活性化のため、持木一茂能登町長あてに提案することにした。
 29日の午後、能登町秘書課の担当者に提出した提案書は、以下のとおり。

 町の活性化に関する提案書――能登町に日本一の歴史遺産を残そう――
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地域起こし>(提案)能登町に日本一の歴史遺産を残そう

2013年03月28日 | 雑談など
 能登町のベストスポット、最大の歴史遺産はどこだろうか。
 常識的な観念を捨てれば、間違いなく、「遠島山の舟隠し」である。

 町の「パンフレット」によれば、今から400年以上昔の室町時代に棚木某氏が能登の海防の任にあたり、棚木城を構え、この舟隠しの入り江に警備船を繋留して敵の攻撃に備えた場所だったという。「海防」の要所だったのである。
     【写真】町立美術館から舟隠しを望む。

 ところが、今から36年前の昭和52年9月19日夜遅く、北朝鮮の工作員が夜陰に乗じて遠島山の舟隠しに侵入して日本人男性を連れ去ったのである。「海防の要所」だったところが、不覚にも破られて拉致現場となったのである。
     拉致現場拡大図


 敵対国から、国民の生命と安全を守ることができないようでは、国として体裁をなしていない。欠陥国家であることを国民の面前に突きつけた事件だった。

 この事件が北朝鮮拉致問題の発端であり、出発点である。続いて、2ヶ月後に横田めぐみさんの拉致がされている。日本の警察の対応のまずさもあり、北へ間違ったメッセージを送ったという説もあり、拉致問題の原点でもある。

 「宇出津事件」として記憶され、北朝鮮による拉致の現場が特定されている唯一の事件である。36年前に被害者と工作員に協力した在日朝鮮人が宿泊した旅館も廃墟のまま、残されている。
     
 ヒロシマの原爆ドームは悲劇の遺産であるが、現在では平和の象徴として残され、祈念されている。負の遺産を正の遺産としてよみがえらせているのである。同じように、拉致の現場は、海防の象徴としてよみがえさせるべきである。

 里山里海、食文化、祭りに代表される能登の平和な暮らしは、これを支える備えがあってはじめて成り立っているものである。その備えとは、「防」である。陸、海、空の防が必要であり、海防の象徴が「遠島山の舟隠し」である。
 
 具体的な方策として、国、県の支援を受けて、棚木城本丸の復元(海防の任にあたった棚木某の居城)、警備船を繋いだ舟隠しの復元、拉致記録等の資料館の設置、海防の小道の築造、拉致問題のイベントの開催などなど「海防」を考えるエリア構想の実現をめざしてはどうか。
 2013.3.28、中 登史紀
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辰巳ダム裁判>近年の集中豪雨について(国は過大な想定降雨を正当化したいのか)

2013年03月27日 | 辰巳ダム裁判
(添付資料として、「f1-」「f2-」「f3-」の名前のついたpdfファイルがあるが、当方のホームページで参照のこと)

 平成25年2月20日、金沢地方裁判所において行われた進行協議形式治水勉強会で、被告(国)は、準備書面での議論のほかに、「第4 近年の自然災害の状況について」を付け加えてプレゼンテーションを行った。最近、全国的に豪雨の発生が多くなり、石川県でもその傾向が強くなる中、平成20年7月には浅野川上流域で記録的な豪雨があった。3時間雨量140mm程度の雨はいつでも犀川で発生する可能性がある、辰巳ダム計画は妥当なものだと主張するようである。

 「第4 近年の自然災害の状況について」は、3項からなっており、(1)全国の豪雨の状況について、(2)全国の短時間豪雨の状況について、「(3)石川県の短時間豪雨の状況についてであるが、その主張が妥当かどうか検討する。被告のプレゼンテーションから関係箇所を別添で添付する(f1-)。

まず、
「(1)全国の豪雨の状況について」は、最近の豪雨について5例あげ、日雨量は140mmから872mmとなっている。昔から、大きい雨はいくらでもあるので、これをもって、近年、豪雨が増えたとは言い難い。
近隣では、44年前の昭和44年(1969)8月10日~11日にかけて、富山県東部山岳地帯で連続雨量1000mmに達する豪雨があった。
 
「(2)全国の短時間豪雨の状況について、(3)石川県の短時間豪雨の状況について」では、最近10年間(H10~H19)と20年前(S51~S62)と比較して、大雨が増えていると説明している。時間50mmの大雨の頻度は全国では、約1.5倍になり、石川県では、約4倍にも増加していると説明する。
石川県の1時間降水量(50mm以上)の年間発生回数の推移は、以下のようであり、S51~S62の年平均0.7回から、H10~H19の年平均3.0回に増加している。
  S51~S62 年平均0.7回
  S63~H9    年平均0.8回
  H10~H19 年平均3.0回

 この大雨の頻度が実際に犀川の洪水ピーク流量値に反映しているかどうかを「犀川下菊橋測水所流況表」で調べてみた。「下菊橋測水所流況表(年最大値のみ)」(f2-)の各期間の200m3/秒を超えるピーク流量は、以下のとおりである。
  S53~S62 250m3/秒
  S63~H9    220,242,302m3/秒
  H10~H19 270,295,352,364m3/秒
  (注:S51,52の流量データはない。)

 1時間降水量(50mm以上)の年間発生回数をS51~S62とS63~H9で比較すると、ほとんど変わらないが、200m3/秒を超えるピーク流量が1データから3データと増えている。S63~H9とH10~H19の比較では、1時間降水量(50mm以上)の年間発生回数が著しく増加し、200m3/秒を超えるピーク流量も増えている。全体として、大雨の回数の増加につれて洪水ピーク流量も大きくなっている傾向がうかがえる。大雨の傾向が洪水ピーク流量の増大に反映しているようである。

 この傾向が100年確率推定値にどのような影響を与えるか検討してみる。犀川では、昭和53年から継続して流量観測が行われており、近年の洪水ピーク流量の増大がこれらのデータに反映している。S53からH19までの30年間の「下菊橋測水所流況表(年最大値のみ)」の正時ピーク流量データから、統計的分析して、100年確率推定値を求めた結果が以下のとおりである(甲第28-1号証「犀川の流量確率評価について(下菊橋測水所流量観測記録30年間)」による。)。
適合度を満足する確率分布が8つあり、推定値は362ないし476m3/秒。

 ただし、この推定値は、正時(しょうじ、一時ちょうど、二時ちょうどなどのように、分・秒の端数のつかない時刻。)データによるもので、つぎの計測までの1時間の間のピーク流量を計測していない。そのため、正時と任意のピークとの関係を知る必要がある。

 平成20年7月28日浅野川豪雨の例では、正時ピーク流量値は328m3/秒であり、任意ピーク流量値は433m3/秒である。比率にして1.32倍である。
また、「洪水調節図(犀川大橋基準点)」(f3-)から、正時と任意ではズレの最大を読み取ってみる。1時間間隔の間で、ピーク流量値は、最大で1.2倍程度のズレがあることがわかる。
これらを参考にすると、正時と任意のズレは1倍から最大1.3倍程度であることがわかる。

 正時ピーク流量値から求めた100年確率推定値を1.3倍して修正100年確率推定値を求めると、470ないし618m3/秒となる。これに対して、犀川大橋基準点の100年確率洪水ピーク流量は、1230m3/秒である。50%にしかならない。近年の豪雨による洪水ピーク流量のデータを入れて統計解析をしても、辰巳ダムなし状態(犀川ダム、内川ダムあり)で著しい余裕がある。
そして、石川県での近年の豪雨の傾向はあるが、局所的な傾向が強く、犀川のような規模を持つ河川では、いまのところ、あまり大きな影響はないと判断できる。

(3)石川県の短時間豪雨の状況について②平成20年浅野川豪雨 の項では、3時間雨量140mm以上の面積が235km2あり、犀川大橋上流域の面積が150km2だから、犀川でも3時間雨量140mmが発生する可能性は十分あり、辰巳ダム計画で3時間雨量142mmとしたことは妥当な計画であることを主張するようである。

 他で起きたから、ここでも起きるかもしれない、と単純に考えるのは、科学的ではない。国の説明からもそれは明らかである。3時間雨量140mm以上の面積を235km2としているが、犀川大橋上流域の面積150km2と同じ範囲では、3時間雨量160~180mmにもなる。この範囲が犀川上流域に重なる可能性があると説明していることと同じである。そうなると、辰巳ダム計画は根本から見直さざるをえない。

 そもそも、専門家は、占い師ではないので、降るかもしれない、可能性があるということは、科学的な根拠をもとに主張しなければならない。地形や気象は地域固有のものであり、ほかで起きたからここでも起きるとはいえない。

 降るかもしれない、発生する可能性があるかもしれないという、単なる悲観的な話は、逆に、これに対抗する楽観的な話もまた、無数にある。例えば、既存2ダムの利水ダム容量を洪水調節容量として活用すればよい(実際に浅野川豪雨の際は両ダムとも利水ダム容量はほとんど空だった。)、犀川の堤防には1mの余裕高があるのでこれを利用すればより大きなピーク流量でも流すことが出来る、豪雨の際に山地があまり湿潤状態でなければ飽和雨量が大きくなり洪水ピーク流量が小さくなるかもしれない(実際100mmで計画しているが、平成10年の台風7号では飽和雨量150mmである。50mm大きくなるにつれて洪水ピーク流量は小さくなる。)、100年確率2日雨量314mmを超えるような豪雨があったとしても平成8年6月24日型であればピーク流量は711m3/秒に上乗せされるだけで大きな流量にはならないなどなど、際限はない。

 仮に科学的な根拠を構築して、3時間雨量160~180mmにもなることを想定内とするのであれば、辰巳ダム一つではとても足りないということにもなる。

 ところで、この浅野川豪雨でどうなったか。浅野川中流域で堤防を越えて氾濫した。が、浅野川放水路がフルに機能を発揮しておれば、放水路下流の中流域では氾濫被害はほとんどなかったはずである。もともと浅野川洪水防御の切り札として、昭和49年に完成していたのである。放流される方の犀川では、大橋地点のピークで433m3/秒であり、100m3/秒程度の水量が増えても能力は1230m3/秒であり、十分すぎる余裕があった。さらに、上流の犀川ダム、内川ダムも空に近い状態で、洪水調節容量のほかに利水ダム容量も空いていた。つまり、浅野川豪雨が記録的な豪雨だったとはいえ、洪水防御は十分だったのである。
2013.3.27,naka
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日本人>ロシア、アメリカは(日-7)

2013年03月22日 | 雑談など
ロシア
 ロシアのアジアでの立場は非常に微妙になっている。経済力は、中国のGDPの1/4程度であり、弟だった存在が、兄になってしまい、中国がいささかけむたい国になってしまった。その上、広大な極東地区のロシアに約700万人の人口資源しかないのである。中国の人口資源を大いに活用したところであるが、自由に受け入れると人口で圧倒されてあっという間に中国化されることを懸念しはじめた。最近、中国が沿海州(ウラジオストックがあるところ)などの領有権の主張を始めた。ここはロシアが清国から取り上げたところである。中国人がどんどん入り込んでくれば、乗っ取られることになる。これらの危機感から、ロシアは急速に日本と手を組みたいという気運がでてきているようだ。安倍政権が長期安定の様相を呈してきたので、ロシアとの領土問題を含めた関係改善がなされる兆しがでてきた。両国とも安全保障上の中国への牽制の意味もある。

アメリカ
 日本人は、差別意識を持ったら悪いかのように意識しすぎるが、差別意識は、異物から自分を守ろうとする本能みたいなものであるから、人が差別意識を持つのは当然である。その差別意識が表に出て、他人に不利益をもたらすようなことはまずいので規制されなければならないのである。アメリカ社会で、「白人専用」の店があるが、差別される人々に不利益をもたらすほどのものではなく、少し不愉快だというだけのことである。このようなことは許容される差別である。

 アメリカでは、150年ほど前の南北戦争まで奴隷制度があった、今の価値観から言えばとんでもない遅れた国だったのである。一方、日本には奴隷制度などなかった。文化的に進んだ高度な社会という意識を持ち、アジアに優越している、自由と平等の民主国家アメリカにとっては憂鬱な問題だったのである。そこでルーズベルトは、日本が併合していた朝鮮を植民地支配から開放するという大義を日米戦争の名分に入れた。

 戦後、アメリカは日本の徹底的な弱体化を図るため、平和憲法を受け入れさせ、武力を持つことを禁じた。ところが、自由主義社会と共産主義社会の対立が明らかになり、朝鮮半島などの軍事衝突の後、アメリカはこの弱体化政策を反省している。

 ダグラス・マッカーサーは、日本の安全保障上、朝鮮半島に日本が関与せざるを得なかった意味を理解した。彼は、つぎのように語っている。「朝鮮戦争が始まってアメリカは自分たちがやっていることは、明治以来日本がやったことと同じだと気が付いた。朝鮮半島に一方的に入ってきたのが清国でそれが「日清戦争」、朝鮮半島に軍港をロシアが造り始めて、それが「日露戦争」。」

 そしてまた、彼は、大陸に進出して、大東亜戦争を戦ったことは、日本の自存自衛のための戦争であり、侵略戦争でなかったことを認めた。東京裁判から3年後、GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーは、アメリカ上院軍事外交合同委員会の公聴会(1951年5月3日)にてつぎのように証言した。

 「日本の皆さん、先の大戦はアメリカが悪かったのです。日本は何も悪くありません。日本は自衛戦争をしたのです。イギリスのチャーチルに頼まれて、対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込んだのです。アメリカは日本を戦争に誘い込むためイジメ抜きました。そして、最後通牒としてハルノートを突きつけました。中国大陸から出て行けだの、石油を輸入させないなど、アメリカに何の権利があったというのでしょう。
当時、アジアのほとんどの国が白人の植民地でした。白人はよくて日本人は許さなかったのです。ハルノートのことは私もアメリカの一般国民も知りませんでした。あんなものを突きつけられたら、どんな小さな国でも戦争に立ち上がるでしょう。
戦争になれば圧倒的な武力でアメリカが勝つことは戦う前から分かっていました。我々は戦後、日本が二度と白人支配の脅威とはならないよう周到な計画をしました。アメリカは知っていたのです。国を弱体化する一番の方法は、その国から自信と誇りを奪い歴史を捏造することだと。戦後アメリカはそれを忠実に実行していきました。
まず日本の指導者は間違った軍国主義をとってアジアを侵略していったと嘘の宣伝工作をしました。日本がアジアを白人の植民地から解放するという本当の理由を隠すため大東亜戦争という名称を禁止し代わりに太平洋戦争という名称を使わせました。
東京裁判はお芝居だったのです。アメリカが作った憲法を日本に押しつけ、戦争ができない国にしました。公職追放をしてまともな日本人を追い払い、代わりに反日的な左翼分子を大学など要職にばら撒きました。その教え子たちが今マスコミ・政界などで反日活動を
しているのです。徹底的に検閲を行い、アメリカにとって都合の悪い情報は日本国民に知らせないようにしました。ラジオ・テレビを使って戦前の日本は悪い国だった。戦争に負けて良かったのだと日本国民を騙しました。これらの政策が功を奏して今に至るまで独立国として自立できない状態が続いているのです。
 私は反省しています。自虐史観を持つべきは日本ではなくアメリカなのです。戦争終結に不必要な原子爆弾を二つも使って何十万人という民間人を虐殺しました。最後に私が生きていた時の証言を記して謝罪の言葉としたいと思います。
『私は日本について誤解をしていました。日本の戦争目的は侵略ではなく自衛のためだったのです。太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の過ちは、共産主義を中国において強大にさせたことでした。東京裁判は誤りだったのです。日本は八千万に近い膨大な人口を抱え、その半分が農業人口であとの半分が工業生産に従事していました。潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接した何れにも劣らぬ優秀なものです。歴史上のどの時点においても、日本の労働は人間が怠けているときよりも働き生産している時の方が幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでよいようなものを発見していたのです。これまでの巨大な労働力を持っているということは、彼らには何か働くための材料が必要だと言うことを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし彼らには手を加えるべき材料を得ることができませんでした。日本原産の動植物は蚕をのぞいてほとんどないも同然でした。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない、他にないものばかりでした。その全てがアジアの海域に存在していたのです。もしこれらの原料の供給を断ちきられたら一千万から一千二百万の失業者が日本に発生することを彼らは恐れたのです。したがって日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。』」

 1970年(昭和四十五年十一月二十五日)、作家・三島由紀夫(四五)が陸上自衛隊市ケ谷駐屯地において、憂国の演説を行った後、割腹自刃を行った。当時、当方は23歳で、その意味がわからなかった。日本精神の崩壊の痛手からようやく回復しつつあるのではないか。占領軍が恐れたのは、日本が戦争で成し遂げた真実を日本国民に知られることである。それは、
「あの戦争の敗者は日本ではない。真の敗者は植民地をほとんど失った欧米列強だ。」(H.G.ウェルズ)だったのである。
(おわり)
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日本人>台湾などの東南アジア諸国は(日-6)

2013年03月21日 | 雑談など
 中国、北朝鮮、韓国の特定アジア諸国以外は、すべて親日的である。親日的な理由は明確である。大東亜戦争で植民地支配をしていた白人を追っ払ったからである。

 大東亜戦争(GHQが禁止して、太平洋戦争と言っているが、もともと大東亜戦争といっていた!)では、フィリピンからアメリカ人、マレーシアとシンガポールからイギリス人、インドネシアはオランダ人、ベトナムからフランス人をあっという間に蹴散らした。開戦してまもなく、イギリス海軍が誇る「プリンス・オブ・ウェールズ」など2隻の戦艦を簡単に沈められてチャーチルはがっくりきた。白人の植民地支配を覆してしまったので、白人代表のアメリカは必死で反撃せざるを得なくなったのである。

 日本が敗戦した後、一時、白人の植民地支配が復活したが、まもなく、各地で独立運動が起きて独立を獲得し、植民地支配から脱した。ビルマでは日本軍が養成した軍人達が独立を勝ち取った、インドネシアでは、敗戦後も当地にとどまった1千名以上の日本兵士とともにインドネシアの独立をなしとげた。インドも日本のおかげで独立が早まったと感謝している。

 バ・モウ ビルマ首相 「我々を白人支配から救い出してくれたのは日本のおかげだった。我々は大戦終盤に日本を見限ったがその恩は忘れない。日本ほどアジアに貢献した国はいない。日本ほど誤解を受けている国はいない。」

 プラモード タイ首相 「日本のおかげでアジアは独立できました。日本というお母さんは母体を壊してまでもアジア諸国という子供を産んでくれました。今日、アジア諸国が米英と対等に話ができるのは誰のおかげか。それは自らを殺してまで産んでくれた日本というお母さんがあったからだ。我々は、お母さんがお産を決意した12月8日を、全ての力を出し尽くし私たちの国を産み、力尽きた8月15日を忘れてはならない。」

 ネール インド首相 「日本は謝罪を必要とすることなど我々にしていない。それゆえ、インドはサンフランシスコ講和会議には参加しない。講和条約にも調印しない。」

 デサイ インド弁護士会会長 「インドの独立は日本のおかげで30年早まった。この恩は忘れてはならない。」

 シェーフェー マレーシア外相 「なぜ日本が謝るのでしょうか。あの大戦でマレーシア人と同じ小さな体の日本人が大きな体のイギリス人を追い払ってくれたのではないですか。日本無くして東南アジアの独立はありませんでした。この日本が払った尊い犠牲を否定することは、バックミラーばかりを見ているようなものです。」

 ゴーチョクトン シンガポール首相 「日本の統治は過酷なものだった。しかし、日本軍により欧米のアジア支配は粉砕された。これはアジアに自信を与えた。大戦後、15年以内にアジアの植民地は全て開放された。」

 インドネシアの教科書 「日本の占領は大きな利益をもたらした。第一に、基礎教育。第二、軍事組織。第三に、政府機構。これらはインドネシア独立の基礎となった。」

 ブン・トモ インドネシア情報相 「あの戦争は我々の戦争であり、我々がやらなければならなかった。それなのに全て日本に背負わせ、日本を滅亡寸前まで追い込んでしまった。申し訳ない。」

 そして、「第二次大戦において、日本人は日本のためよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大な歴史を残した。それらの国々とは日本の掲げた短命な理想、大東亜共栄圏に含まれた国々である。日本人が歴史上のこした最大の業績は、世界を支配していた西洋人が『不敗の神』では無いことを示した点である。」(英国の歴史学者、アーノルド・トインビー)
 (つづく)

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