犀川の河川整備を考える会

犀川の辰巳ダム建設を契機に河川整備を考え、公共土木事業のあり方について問題提起をするブログ。

辰巳ダム>「100年確率洪水」を考える

2018年03月07日 | 辰巳ダム
 辰巳ダムは、「100年確率洪水」を根拠に辰巳ダムが計画されて造られている。

 概ね100年に1回程度発生する規模の降雨による洪水から市街地を防御するためのものである。この「概ね100年に1回程度発生する規模の降雨による洪水」は、「100年確率降雨による洪水」であり、略すると「100年確率洪水」※1 である。
 
 「100年確率洪水」と数十年にわたり、つきあっているがいまだに悩まされている。
 架空のものであり、実体がない。
 実体があれば、誤魔化しようがないので答えは一つである。ところが、架空のものは、材料が同じとしても様々に加工して頭の中で創り上げたものだから、各人各様の答えがあり、容易に定まらない。

 辰巳ダム計画の例では、「100年確率洪水」は24候補がある。547m3/秒~1,741m3/秒の範囲にある。石川県の説明では、最も大きい数値1,741m3/秒を採用すれば、すべてをカバーできるとして、「100年確率洪水」は、1,741m3/秒となった。

「100年確率洪水」は、架空の数値である。
実体である観測記録をもとにして確率論的に加工して求められた架空の数値である。
将来の100年間に発生する最大規模の洪水(いわば実体である)と同じものではない。
また、過去の100年間に発生した最大規模の洪水である実体とも同じものではない。

 将来発生する実体を知ることは不可能だから架空の数値で代替しようとしているのである。知りたいのは、将来発生する実体だから、架空の数値が将来の実体に近似していなければお話にならない。
ところが、将来発生する実体がわからないので、求めた架空の数値が近似しているのかわからない。

 これを確かめるために技術基準※2 では流量確率による方法が定められているが、この方法で求めたものも別物の架空の数値であるから、この数値と比較しても確かかどうか評価しがたい、検証しているようで検証になっていない。

 科学技術的な手法は、過去のことを含め、現状の変化を考慮に入れて、将来発生することを予測できることになっている。変化を先取りして予測できるともいえるが、将来の実体は不明だから、確かめようがない。所詮、人間の頭の中で創造したもので誰も本当のところはわからない。

 辰巳ダム計画の「100年確率洪水」は過大な想定洪水であり、有史以来発生したことのないような洪水である。犀川で過去100年ほどの間に発生した最大規模の洪水は、900m3/秒前後であり、今後とも大きな流域条件の変化はなく、温暖化などの気象変動の要因を勘案した変化を考慮に入れても石川県が想定した数値とは著しい乖離がある。常識的な判断では、誰が見ても架空の数値が過大である。

 治水の基本となる架空の数値を決める際、現在は確率論的な手法を用いているが、過去には既往最大洪水をもとにしていた。実体と乖離が少ない現実的な方法である。
 
 「実体としての過去の洪水量」と「架空の数値としての将来の洪水量」の違いが著しい場合、何が信頼できるか。架空の数値を基本と考えるのではなく、実体を基本としてとらえ、架空の数値を補完的にみることが現実的な対応ではないか。
 確率論的な手法の場合、人類の英知を凝縮した科学技術に対する信頼が高いことも反映して、架空のものと実体とのつながりが弱くなり、ほとんど糸の切れた凧状態に陥りやすい。

 架空の数値を求める方法が精緻になればなるほど、信頼できると誤解されやすい。誤解された結果が、辰巳ダム計画である。科学技術的手法を理想的にとらえ過ぎるのは危うい、理想に過ぎると空理空論で破綻する、現実を踏まえ、地に足をつけて考えるべきだろう。

追記:「治水の基本となる架空のもの(基本高水)」と「(別物の)実体というもの」と違うと追求しても、“そりゃ違うさ”ということか。

※1:この表現は正しくない。「100年確率降雨による洪水」と「100年確率洪水」は同じではない。というよりもまったく異なるものである。治水計画では「100年確率洪水」を求めることが目的であるにもかかわらず、「100年確率降雨による洪水」が代用されているので、代用されていることを前提に話しを進める。
「100年確率降雨による洪水」は、雨の降り方によって洪水の大きさは違うので答えは一つではない。これに対して、「100年確率洪水」は概ね100年に1回程度発生する規模の洪水であり、答えは一つである。
※2:「基本高水の決定」の解説に「流量観測データが十分蓄積されているような場合には、流量確率を用いる」とある。

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辰巳ダム>安全と安心について

2018年03月06日 | 辰巳ダム
 「金沢市民の安全と安心のために辰巳ダムが必要である。」と知事はいう。

 この表現は正しくない。
 安全のために辰巳ダムは必要であるということは一応、正しい。辰巳ダム計画書でこの技術的根拠を示しているからである。
 安心のために辰巳ダムは必要であるということは正しくない。辰巳ダムで安心と考えている人たちもいるだろうが、辰巳ダムがあろうとなかろうと安心と考えているものもいるから、根拠はない。ただ、事業者が作ったパンフレットに書いてあるかもしれないが。

 安全は技術者の言葉とすると、安心は政治家の言葉である。
 安全は、客観的であり、数的に表現できて、各人の評価が一致する。
 安心は、主観的で一人一人の心の問題であり、各人の評価が一致するとは限らない。数的に表現できない。

 技術者は、数的に表現されている根拠をもとに安全な構造物を造るなどして安全を実現する。
 政治家は、様々の政策を示して、(住民の)安心を実現する。目標が数的に明示されていないだけに様々に政策が肥大化して、(住民の)安心を実現しようとしがちである。安心は一人一人の心の問題だから、政策が大きくぶれる恐れがある。
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