犀川の河川整備を考える会

犀川の辰巳ダム建設を契機に河川整備を考え、公共土木事業のあり方について問題提起をするブログ。

その他>能登の北前船の古文書を調べた(その6)

2019年10月28日 | その他

 能登の北前船(歴史)を知ることも今の時代をより分かるためである。

 当方は現在、能登の柳田村(現能登町)で暮らしているが、つい最近まで「生まれてから一度もこの村を出たことはない」と話す人たちがめずらしくなかった。十数戸の谷あいの集落で生活し、たまに2,3里離れた村の商店街に買い出しに行く程度の行動範囲である。これが、その人の世界である。
 ところが、今を生きている多くの人は、日本国内は言うに及ばず、世界各国を旅している。これが現代の人の世界(空間)である。
 
ついその昔、村に住む人たちは、加賀の中心である金沢まで100キロメートル強の道のりに過ぎないが徒歩で3日かかり、つい最近まで、柳田から宇出津まで徒歩、宇出津から七尾まで船、七尾から金沢まで汽車と一日がかりの旅だった。現在では、車で2時間ほどである。時間が数十分の一に短縮されたわけだが、逆に言えば、人を取り巻く時間の速さが数十倍になっているとも言える。これが現代の人が否応なく乗せられている乗物(時間)ではないか。

 便利な世の中になったと喜んでいるが、早く、広がった、時間と空間の中で右往左往しているのでは。
 パソコンやスマホの普及が極限近くに達して人びとが情報氾濫におぼれかかっているようにも見える。豊かで幸せな暮らしとは何か、を見失いがちである。
 歴史的な過去をふり返り、他所を見聞きすることで、今という時と所を理解する手がかりにすることができるのではないだろうか。
 
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その他>能登の北前船の古文書を調べた(その5)

2019年10月27日 | その他
 能登半島黒島の濱岡屋は、1800年代の前半、寛政、文化、文政のころが最盛期だったという。生蝋は北前船の取引の主要な産品だったらしい。総合商社だったから、寄港する度に注文を受けながら、商品を売買しただろうから、長州の赤間関で買い付けもその一環だったろう。
 商品の総額1350万円相当である。利益は3割ほどあったらしいので400万円ほどになる。

 この文書を作成した問屋の取引担当の番頭さんは、そろばん片手に6桁の数値の掛け算、割り算をしていたのだから、相当、数字に強くないと勤まらない。仕切状の文字も達筆である。総合商社のエリート社員といったところだろう。

 ところで、北前船は千石船と呼ばれるが、千石の米を積み込むことができる。千石の米の商品価値はいかほどであろうか。米の販売価格100文/升で計算してみると、
 1石の価格=100(文/升)×100(石/升)×25(円/文)=25(万円/石)
 千石の価格=25(万円/石)×千石=2億5千万円
となる。
 満載すれば、末端価格ではあるが2億5千万円の商品を運んでいたことになる。一航海で一億円の利益があったというが頷ける。
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その他>能登の北前船の古文書を調べた(その4)

2019年10月26日 | その他
 買仕切状を計算表ソフトで分析した表は、つぎのURLでアクセスできる。
http://www.nakaco.com/history/kaishikiri201910/kaishikiri_20191025.pdf
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能登の北前船の古文書を調べた(その3)

2019年10月25日 | その他
――江戸期の貨幣の現在価格はいくらか――
 
 仕切状は、取引商品の代金の計算書である。現在の貨幣価値に換算しないとよくわからない。
銅銭一文は?
銀壱匁は?
金一両は?

 商取引には、通常、銀貨と銅銭が使用されていた。銭(文)と銀貨(匁)の現在価値を当時の値段と現在の値段の比較から推定する。

 そば一杯が16文ならば、400円として、1文25円である。米一升が100文ならば、600円として、1文6円である。1文は25円か、6円か。何を目安に評価したらいいのだろうか。

 商品の相場は変動しているので、1700年頃と1800年頃の相場と4つの品目の値段を調べた。
 1700年(元禄)頃の金、銀、銭の相場は、
 金一両=銀60匁=銅銭4000文、銀1匁=67文である。
 4つの品目の値段は、米一升=25文、酒一升=70文、そば一杯=8文、人夫日当=80文である。

 1800年(寛政)頃の金、銀、銭の相場は、
 金一両=銀63匁=銅銭6400文、銀1匁=105文である。
 米一升=100文、酒一升=160文、そば一杯=16文、人夫日当=200文である。

 現在の値段を米一升=600円、酒一升=1200円、そば一杯=400円、人夫日当=6000円とする。これを一覧表にすると表1のとおりである。

表1 各品目の各時代の値段
品目  1700年頃 1800年頃  現在
      元禄   寛政
       文   文    円
米一升    25    100   600
酒一升    70    160   1200
そば一杯   8    16    400
人夫日当   80   200    6000

 元禄に比べて寛政には、物の値段が2~4倍に上がっている。

 現在の品目の値段と比較して銭の現在価格を調べる。
 1700年(元禄)時点で評価すると、
米一升=25文 → 現在価格600円とすると1文=24円。
酒一升=70文 → 同1200円とすると、1文=17円。
そば一杯=8文 → 同400円とすると1文=50円。
人夫日当=80文→ 同6000円とすると、1文=75円。

 1800年(寛政)時点で評価すると、
米一升=100文→ 現在価格600円とすると、1文=6円。
酒一升=160文→ 同1200円とすると、1文=8円。
そば一杯=16文→ 同400円とすると、1文=25円。
人夫日当=200文→ 同6000円とすると、1文=30円。

 一覧表にすると表2のとおりである。
表2 一文は現在の何円に相当するか
換算    1700年頃   1800年頃  現在
        元禄   寛政
品目      円/文 円/文  円
米一升     24   6    600
酒一升     17   8    1200
そば一杯    50   25   400
人夫日当    75   30   6000

 表2から、いずれの品目も1700年頃から1800年頃半分以下に下がっているが、米・酒グループとそば・人夫グループと大きく差違がある。当時の品目の価値と現在の品目の価値が大きく変動したのだろう。どちらのグループの価値の方が変動が少なく、より信頼できる目安なのだろうか。
 価値の変動の少ないものを目安にした方が当時の貨幣の価値をより正確に把握できるだろう。

 変動の少ない基準となる目安がはっきりしないので、価値の変動を知るための手がかりとして、各時代毎の各品目の関係を検討してみる。米と酒グループの代表として米を、そばと人夫グループの代表として人夫を選ぶ。
 米一升に対する各品目の関係を表3に示す。
表3 米一升に対する各品目の関係
品目   1700年頃 1800年頃 現在
        元禄  寛政
        比率  比率  比率
米一升     1.00  1.00  1.00
酒一升     2.80  1.60  2.00
そば一杯    0.32  0.16  0.67
人夫日当    3.20  2.00  10.00

 また、人夫日当に対する各品目の関係を表4に示す。
表4 人夫日当に対する各品目の関係
品目   1700年頃  1800年頃 現在
        元禄  寛政
        比率  比率  比率
米一升     0.31  0.50  0.10
酒一升     0.88  0.80  0.20
そば一杯    0.10  0.08  0.07
人夫日当    1.00  1.00  1.00

 表3から、米一升に対するそば一杯と人夫日当との関係は大きく変化している。表4も根拠が表1だから傾向は同様であるが、この表がよりわかりやすい。人夫とそばの関係は時代が変わってもほとんど変化がない。一方、人夫と米・酒との関係は江戸期に比べて現在は大きく変化している。
 米と人夫とどちらの価値がより変動が少ないと判断できるだろうか。

 米は機械化などで効率があがり、少ない手間で大量に生産されて価値が下がり、安く提供されるようになった。酒も同様である。
 一方、人夫日当は、一日の労力、つまり力仕事の代償とみると、昔も今も価値の変動はより少ない。そうすると、そば一杯もそばをゆでて客に提供する労力は昔も今も変わらないと考えてよい。
 ということで、人夫日当・そば一杯グループの方が価値の変動が少なく、評価の目安となろう。人夫日当とそば一杯のどちらを目安にするかであるが、人夫は景気や災害などの需要供給の変動があるが、食べるものの需要は人口に見合って変動がすくないと考えて、そば一杯を目安に選ぶ。

 江戸期でも中期と後期では著しい相違があるが、
 ここでは、1800年頃、つまり寛政期のそば一杯16文を目安にすると、
銅銭一文は、25円
銀一匁(105文)は、2千6百円
金一両(銀63匁)は、16万円
 である。
 ちなみに、千両役者と言えば年収が千両、つまり1億6千万円であり、現代風に言えば、一億円プレイヤーというところであろうか。
(つづく)
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能登の北前船の古文書を調べた(その2)

2019年10月24日 | その他
 北前船は、大坂から瀬戸内海を通り、関門海峡から日本海へ、陸地沿いに山陰、北陸、東北、北海道に達する日本海航路を往来し、寄港地で商品の積荷を売り買いして商いをした船のことである。単に商品を運ぶ運送業ではなく、商品の需要、値段などの情報をいち早く収集して取引をした「動く総合商社」であり、莫大な利益をあげることができたという。千石船※1 と呼ばれる木造の帆船を航行させて一航海※2 で千両(現在価格でおおよそ1億円)の利益があったという。
※1:千石船とは米を千石積むことができる船で、一石が150キログラムなので150トン積むことができる船のことである。
※2:年に1往復程度。冬期は海が荒れるので航海できない。

 黒島は一寒村に過ぎなかったが江戸時代の中期に海運業の先覚者である傑物が現れて、北前船による海運業が発展し、船主や船員の居住地として栄えた。現在は、海運業が廃れてしまったが、黒島地区は伝統的建造物群保存地区として維持されている。

 ここで紹介するのは、門前町黒島村の北前船五大船主の一人である濱岡屋の「買仕切(かいしきり)状」である。
仕切状とは、(北前船と問屋との間で)商品売買に際し、品目、数量、代金、手数料などを記した計算書で問屋が客(北前船)に発行する。買仕切と売仕切がある。船主(北前船)が積荷(商品)を買うときに「買仕切状」が出され、逆に、売るときは「売仕切状」が出される。

 本買仕切状は、濱岡屋平作(北前船)が長州赤間関の油屋清左衛門(問屋)から生蝋(きろう)を買った取引の計算書である。
ちなみに、生蝋は、ハゼの実から採れる木蝋で、蝋燭の原料、染め物の防染材(蝋結染・ろうけつぞめをするときに染料をはじく)、整髪のための鬢付け油の材料(びんつけあぶら、江戸時代のポマードである、植物油に木蝋をまぜたもので手にとって体温であたためると融けるが、常温になると固まり、髪を固定する)として使用された。需要が高かったので、西日本の各藩は櫨栽培、製蝋、販売に力をそそいだ。
(つづく)
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