(3)基本高水の決定は既往最大洪水との検証が必須である
裁判では文書による争いで正確さが問われるのでものごとの本質が見えてくる。
行政が意見聴取と称して住民の様々な意見を聞く場合は、聞いているようで実は聞いていないことが多い。例えば、既往最大洪水と基本高水ピーク流量の比較である。
住民が、既往最大洪水が930m3/秒あるいは第二室戸台風時は700±50m3/秒に対して基本高水ピーク流量1750m3/秒が過大ではないかと指摘すると、行政の意見聴取の場などの対応では、過去の洪水のことは不確かなことであるか、あるいはたまたま大きな洪水がなかっただけだなどとその場しのぎの説明で終わってしまう。
一方、裁判での議論となると、文書が残り、立証もしなければならないのでその場しのぎで済まない。文書を見返してみると、基本高水ピーク流量を問題にするのではなく、既往最大洪水の量的な面、質的な面から、信頼に値するものではないと論理を展開し、対比すること自体を意味のないものとしようとすることがわかる。
質的な面では、昔の技術水準で推定したものだから信頼できないとし、量的な面では、現在の技術手法で飽和雨量ゼロを条件で推定する(筆者注:山地の保水能力を無視した極限値であり、現実的ではない)と1200m3/秒程度になるなどと説明し、既往最大洪水量の数値がいかに信頼性の乏しいものであるかを強調する。既往最大洪水と比較すること自体を曖昧にし、意味のないものであるとの結論に導く。
既往最大洪水は現実に発生した実体である一方、基本高水ピーク流量は様々な仮定を入れて創り出した架空のものにすぎないのであり、科学技術的な態度で臨めば、確度をあげて推定して求めた既往最大洪水量と近似するか、あるいはその差違を科学的に根拠づけた上で、解析過程を再検証して求めた数値を基本高水ピーク流量とするべきものであろう。
裁判では文書による争いで正確さが問われるのでものごとの本質が見えてくる。
行政が意見聴取と称して住民の様々な意見を聞く場合は、聞いているようで実は聞いていないことが多い。例えば、既往最大洪水と基本高水ピーク流量の比較である。
住民が、既往最大洪水が930m3/秒あるいは第二室戸台風時は700±50m3/秒に対して基本高水ピーク流量1750m3/秒が過大ではないかと指摘すると、行政の意見聴取の場などの対応では、過去の洪水のことは不確かなことであるか、あるいはたまたま大きな洪水がなかっただけだなどとその場しのぎの説明で終わってしまう。
一方、裁判での議論となると、文書が残り、立証もしなければならないのでその場しのぎで済まない。文書を見返してみると、基本高水ピーク流量を問題にするのではなく、既往最大洪水の量的な面、質的な面から、信頼に値するものではないと論理を展開し、対比すること自体を意味のないものとしようとすることがわかる。
質的な面では、昔の技術水準で推定したものだから信頼できないとし、量的な面では、現在の技術手法で飽和雨量ゼロを条件で推定する(筆者注:山地の保水能力を無視した極限値であり、現実的ではない)と1200m3/秒程度になるなどと説明し、既往最大洪水量の数値がいかに信頼性の乏しいものであるかを強調する。既往最大洪水と比較すること自体を曖昧にし、意味のないものであるとの結論に導く。
既往最大洪水は現実に発生した実体である一方、基本高水ピーク流量は様々な仮定を入れて創り出した架空のものにすぎないのであり、科学技術的な態度で臨めば、確度をあげて推定して求めた既往最大洪水量と近似するか、あるいはその差違を科学的に根拠づけた上で、解析過程を再検証して求めた数値を基本高水ピーク流量とするべきものであろう。
毎年の実測流量が分かればよいですが、非毎年の実測流量でも問題はないでしょう。
なお前回のコメントで「中小河川計画の手引き(案)」のp185としたのは、p189の間違いでしたので訂正いたします。