旧約聖書を読む 36

2018-03-01 18:21:38 | 

 「 人身供犠 」 とは何だったのか。

 エホバの神は言う。「 あなたの神が与える土地に入ったならば、その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない。あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者がいてはならない 」( 申命記18 )。

 だが、創世記の神は 「 人身供犠 」 を求めている。アブラハムは、神の求めに応じて、山の上で息子のイサクを焼き尽くす献げ物としてささげようとする。イサクを縛って祭壇の薪の上に載せ、刃物で屠ろうとすると、寸前で一匹の雄羊が現れ、アブラハムは息子の代わりにそれを献げ物としてささげた ( 創世記22 )。 

 エホバの神が禁じている 「 人身供犠 」 を、創世記の神は求めている。この点からも、これらの神々が別神格であることがわかる。

 創世記の神はバアル神であるという前提に立つならば ( 旧約聖書を読む 33 を参照のこと )、聖書のこの記述は、バアルに対する 「 人身供犠 」 の実態を描写していることになる。このように、「 息子や娘に火の中を通らせる 」 といってもそれはあくまでも儀礼で、実際には羊をささげていたのではないだろうか。本当に子供を殺すのは、国家の存亡にかかわる場合のような、稀なケースだったのではないだろうか ( ロバートソン・スミスの 「 セム族の宗教 」 を参照のこと )。

 
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