「西洋の没落」

2010-06-26 18:11:15 | 

を読んでいる。オスヴァルト・シュペングラー著。五月書房。まだ全体の3分の1くらい。
 
 寺山修司が本書を愛読していたという。「死んだ形態を認識する方法は数学的法則である」。これは、「盲人書簡 上海篇」の、「歴史的な過去は数学的法則の中にしか見出されない」の元ネタだろう。シュペングラーは、われわれを取り巻く世界を「自然」と「歴史」とに分ける。「自然」が、成ったもの、認識するもの、死んだもので、「歴史」が、成るもの、直観するもの、生きているもの、なのだという。 自然が死んだものだなんて! と、驚く人もいるだろうが、この場合の「自然」とは、人間によって認識され、法則を与えられ、ひとつの体系の中に閉じ込められた世界を意味する。だから、死んだ(固結した)もの、となる。これに対して「歴史」は生きているが、「過去の歴史」の場合は「自然」と同様固結してしまっていて、法則性がある。あらゆる法則はつきつめれば数学になる。だから、「歴史的な過去は数学的法則の中にしか見出されない」、となる。よし、謎は解けた。だが・・・・・。

 これ、有名だけど実際には読まれない本の代表ではないだろうか。読んでいて楽しくないんだよね。いかにもごってりとした、難解な、前後の関係がはっきりしない文章が、だらだらと続く。ショーペンハウアーの明晰さ、ニーチェの軽快さに欠ける。そのくせ、著者はしばしばこの二人を批判するのだから、あきれてしまう。概念よりも直観を重視するところは、ショーペンハウアーの影響が濃厚なのだが。

 文体がつまらないだけでなく、内容もあてにならない。著者は、「古代ギリシア・ローマ人に歴史はなかった。彼らは今ここにある、目に見える具体的な事物のことしか考えていなかった」、と主張する。だが、「イーリアス」の中に確かこんなエピソードがある。トロイア戦争の時にギリシア方のだれかとトロイア方のだれかが出会って、「俺たちの先祖はつきあいがあったから、この戦争で直接俺たちが戦うのはやめよう」、と誓い合った、とか。彼らは、過去の歴史に価値を認めていたことになる。

 著者はこうも言う。「一方の形式界と、もう一つの形式界との相互関係の限界は、理解が実は自己欺瞞だというところで決まる」。それじゃあ、古代ギリシア・ローマ人が何を考えていたかなんて、わかるわけがないじゃあないか! ましてやこれからの歴史がどうなるかもわからないだろう。それとも、自分だけは例外だとでも言うつもりか? 

 まあ、ギリシア・ローマ文化と現代の西洋文化の間には何の関係もない、という彼の主張は、ギリシアの財政危機がヨーロッパ全体に悪影響を及ぼしている今、一読の価値があるとも言えるが。

 誤植も多い。第1巻53ページの下段16行目「許されない」→「許されたい」、65ページの表の「スピキオ」→「スキピオ」、128ページの上段5行目「無機的な論理」→「有機的な論理」、226ページ下段6行目「われれ」→「われわれ」、234ページ下段15行目「自然的」→「反自然的」、237ページ上段3行目「ブラシッュ」→「ブラッシュ」、239ページ下段18行目「発掘するこ」→「発掘すること」、242ページ上段13行目「グルルック」→「グルック」、245ページ上段25行目「短もい」→「短い」、266ページ下段25行目「材木できた」→「材木でできた」・・・・・。読む気が失せてくるにゃ。

 ニーチェの超訳本が売れているそうだが、この本の場合、超超訳が必要だろう。同じ内容の繰り返しが多過ぎる。まあ、実現しないだろうが。 

 90年前にシュペングラーは西洋文化の終わりが近いと言っている。仮にそうだとして・・・・・。ギリシア・ローマ文化が目に見える具体的な物を志向したのに対して、西洋文化は感覚を超越した無限を志向しているという。では、西洋文化の次の文化は何を志向するのか? 無限の次、などというものがあるのだろうか? また、現代はグローバル化が進んで、全世界が西洋文化になっているが、西洋文化が終わるということは全世界が終わる、ということなのだろうか?
コメント
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