富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「神は苦難のとき、必ず助けてくださる」 詩編46編1-12節

2021-10-23 21:30:30 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第23主日  2021年10月24日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                             司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)

交読詩編   46(神はわたしたちの避けどころ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)詩編46編1-12節(旧p.880) 

説  教 「神は苦難のとき、必ず助けてくださる」辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

讃美歌(21) 377(神はわが砦(とりで))

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

            次週礼拝 10月31日(日)午後5時~5時50分 

            聖 書 詩編90編1-17節

            説教題 「生涯の日を正しく数える」

            讃美歌(21) 141 528  27 交読詩編 90    

  本日の聖書 詩編46編1-12節

1【指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。】
2神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
3わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも
4海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ

5大河とその流れは、神の都に喜びを与える。いと高き神のいます聖所に。
6神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
7すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。
8万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ
9主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。
10地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
11「力を捨てよ、知れ。わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
12万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ

本日の説教

 【指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。】(1節)

 <アラモト>とは、「少女たち(乙女たち)」という意味なので、乙女たちの音調(高い音程)にあわせて、の意味のようです。

 マルティン・ルターの有名な讃美歌「神はわがやぐら、わがつよき盾(讃美歌(旧)267番、讃美歌21の377番」は、この詩編46編に基ずいて創作したものです。詩編も讃美歌も、神の民と共にいますことを選んで下さった神ゆえに、必ず助けていただけることを確信して喜び歌っています。詩では、神の都における臨在を通して共におられ、讃美歌ではキリストにおけるご臨在を通して共におられます。この詩のテーマ(主題)は、避けどころとしての万軍の主です。

 この歌は三つの部分からなります。

第一部(2-4節)は、たとえ海の中に地が飲まれるような、究極的な恐れが襲うとも、礼拝共同体の信頼は恐れに変わることは決してないことを、はっきり語ります。

第二部(5-8節)は、神の都について語ります。エルサレムに迫る諸国民の攻撃の歴史の中で、神の都は、神に守られてゆらぐことがないことを語ります。

第三部(9-12節)は、主の御業と見られる戦いによってもたらされる、破壊について語る勧告です。

 「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」(2節)

 まず、二節において、詩人の信仰の結論が述べられます。<避けどころ>は、戦闘の最前線において、一時的に敵の攻撃から身を避け、危険から逃れ、次の戦いに備えるための避難所であり、<砦>は、文字通り敵の進入を食い止めるために設けられた味方の前線基地を意味します。

<砦(とりで)>の原語、ヘブライ語「マハセー」は、(堅固な)「避難所」です。讃美歌21では、「神はわがやぐら」を、「神はわが砦(とりで)」、と訳しています。ルターの「Burg」が、城、城郭(じょうかく)、避難所を意味しているからです。「櫓(やぐら)」は、城を守るため、敵を見張り、攻撃する建物なので、城の一部分なのです。ちなみに、盾(たて)は、自分の体を盾に攻撃を防ぐ様の比喩としても使われることばです。ここに歌われているのは、いかなる試練や苦難の時にも、神は必ずそこにいて、盾となってくださり、最も安全な避難の場所を常に用意しておられる、という信仰の確信です。

 ルターは、神はわが砦、わが避け所という強い神への信頼に支えられて、当時絶大な権力を誇った中世カトリック教会の圧力にプロテスト(抗議)し、宗教改革の偉業をなしとげました。

 「わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも。海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。」(3-4節)

 <地><山々><海(の水)>といった表象は、それぞれ天地自然の創造の時の、それ以前の混沌(カオス)の持つ勢力を表しています。荒れ狂う自然の猛威に、とうてい抵抗し難い困難や苦難に対しても、神の救いの確実さのゆえに、詩人は恐れる必要が無い、というのです。

 「大河とその流れは、神の都に喜びを与える。いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。」(5-6節)

<大河とその流れ>は、創世記二章のエデンの園から流れ出る川を連想させます。すなわち、「エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。・・・」(10節)。「神の都」、シオンには「大河」が流れているわけではないので、この川は神話的表象としての<川>で、尽きることのない命の泉が川となって溢れ、<神の都>を潤し、神の都に喜びを与えます。神は常にこの都の永遠の住まい、至聖所におられて助けを必要とするすべての者にその救いの力を顕されるのです。<都は揺るぐことはありません>。

 「すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ 」(7-8節)

世が乱れ、<すべての民>が騒乱し、<国々>が動揺しています。詩人は世界の変動を二つの面で考えています。第一は、創造世界の混沌化であり(3-4節)、第二は、歴史世界の動乱です(7節)。だが、神の<御声>は、世界をおびえさせ、恐怖に溶かし去り、世界を静めるのです。<万軍の主>とは全宇宙の支配者の意。<ヤコブの神>とは先祖の時代からのイスラエル民族と主との関係を強調しています。<万軍の主はわたしたちと共にいます>。主はわたしたちと共にあって戦い、身をなげだして、わたしたちを護ってくださるのです。ヤコブの神はわたしたちの<砦の防衛塔>だからです。

「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。」(9-10節)

詩人は、世界の変動を戦争と兵器によるものとして語ります。主なる神の御業があらわされる時、<地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる>。正義が成就し、秩序が世界に打ち立てられ、平和が実現します。そのような永遠の平和を作り出し、完結させる方としての神ヤーウェへの信頼の歌が、この詩編四十六編の基本的なテーマ(主題)なのです。

「力を捨てよ、知れ。わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。」(11-12節)

<力を捨てよ>は、戦いを止めよ。攻撃を中止せよ。お前の力で歴史を従えようとする空しい試みを捨てよ。地と国々の上に君臨する神の力がある。その方のみ業は兵器を破壊すること、その助けは、この方こそ避けどころとなられる。それを詩人は信仰の確信のうちに告白し、賛美するのです。「万軍の主はわたしたちと共にいます」とは、「インマヌエル」の信仰告白です。詩人はこのインマヌエルの信仰に立って、主の救いの確実さを証言するのです。主なる神が共にいますかぎり、恐れの入り込む余地はありません。神が共にいますがゆえに、またこの神ご自身が、砦となられ、避けどころとなってくださるゆえに、すべての内的、外的な敵の攻勢から身をまもることができるのです。このような神のいますところ、その聖なる住まいが、シオンであり、エルサレムに他なりません。

重要なことは、シオンそれ自体で聖なる地を意味を持つのではない、ということです。同様に「神の都」と歌われるエルサレムが、それ自体において神の聖所なのではありません。そこにおいて神の臨在が確認される時においてのみ、シオンは「神の都」たり得るのであり、そこに神がおられる時においてのみ、敵の進入を食い止め、助けを身近に持つことができるのです。裁きの神に対する理解と畏れなしに、シオンをとなえ、エルサレムとそこに建てられた神殿の不可侵性を頼みとすることは、信仰でも何でもありません。

二節の「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」と、八節と十二節で、二回繰り返される「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔」は、この詩編の基調となるテーマ(主題)を示しています。この三つは共に、告白的な宣言です。それらは、礼拝者が神のみ守りのうちにその生命があることに寄り頼んでいるところからくる、礼拝の言葉です。万軍の主とは、ご自身の支配を保つために世にある敵、そして人のうちにいる敵に対して天の軍勢を率いる神なる戦士としての主のことです。

イスラエルの神として、主はイスラエルの歴史の歩みに伴ってくださり、助けてくださった方でした。告白が神を「避けどころ」「砦」と呼び表しているが、この言葉遣いは、ここでは共同体全体の信仰告白です。「それゆえわたしたちは決しておそれない」(3節)とあるように、信仰者は恐れないものとされます。思い煩いと警戒心は消え去り、信頼が広がり、代わって、「主は避けどころ、わたしたちの砦」と告白するものとされます。

新約聖書では 、主なる神はキリストのご臨在を通して共におられます。キリストの体である教会に属する一人一人が、「神の神殿」です(コリント二、3:16)。また、わたしたちに近づいているのは、「シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム」(ヘブライ12:22)です。

 

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