富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストの降誕」 ルカによる福音書2章1~20節

2017-12-24 16:45:18 | キリスト教

            ↑ 「羊飼いへの告知」(1663年)、オランダの画家アブラハム・ホンディウス(Abraham Hondius/1625–1691)の作品

天使から主メシヤ誕生を告げられるシーンを描いたこの絵画は、17世紀による1663年の作品「羊飼いへの告知」。

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

   待降節第4主日(クリスマス礼拝)2017年12月24日(日)

                                     午後5時~5時50分

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 267(ああベツレヘムよ)

交読詩編   98(主こそ王)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) ルカによる福音書2章1~20節(新p.102)

説  教    「キリストの降誕」     辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   263(あら野のはてに) 

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏 

                     次週礼拝 12月31日(日)午後5時~5時50分

                         聖書 マタイによる福音書2章1~12節  

                         説教題    「東方の学者たちの来訪」

                         讃美歌(21)464 258 24  交読詩編72篇

本日の聖書 

1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 14「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

15天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。16そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

     本日の説教

 ルカによる福音書は、イエスの誕生をローマ皇帝アウグストゥスの治世の時代として記しています。この政治の枠組みに入れた理由は、イエスがすべての人(世界)のために生れたということを明らかにするためと思われます。当時、この皇帝は「全世界の救い主」と称され、人々から「アウグストゥスの平和」とも言われていたので、イエスこそが真の平和の救い主であることを言い表そうとしているのです。皇帝として彼は、紀元前27年~紀元後14年の間、在位しました。

 当時の世界最大の強者である皇帝は、全領土の住民に住民登録の勅令を出しましたが、それは知らずに神の救いの計画に奉仕しているのです。ナザレにいたヨセフといいなずけのマリアが、ダビデ王の出身地ベツレヘムに行くことになったからです。ベツレヘムはメシアが生まれると預言されていたダビデの故里です。彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは出産の日をむかえて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったので、牛やろばを飼う家畜小屋を宿としたのです。

 

 ベツレヘムの町の近郊には「羊飼いの野」があります。羊飼いたちが野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていました。すると突然、主の天使が彼らに近づき、主の栄光が周りを照らしたので彼らは非常の恐れました。救い主誕生の知らせは、宮殿の広間ではなく、野原にいる、貧しく身分の低い者に対して、一番先に届けられたのです。「貧しい人に良い知らせを伝える」(イザヤ61・1)の預言が成就したのです。

 

 天使は、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と言いました。「この方こそ、主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるあろう。これがあなたがたへのしるしである」と天使は告げました。

 

 すると、突然、この天使に天の大群が加わり、神を賛美して言いました。「いと高きところには栄光神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美しました。平和を帝国内に確立したとされるアウグストゥス皇帝らが当時「救い主」と呼ばれていたため、イエスこそ真の救い主として対比させています。イエスは「御心に適う人に」平和をもたらす者であり、「平和の君」(イザヤ9・5)として旧約の預言を成就されることが言われています。「御心に適う人に」とは、制限ではなく、人類すべてを含むものなのです。「地の上に平和が人類すべてにあるように。神の御心に適う者に」という意味です。

 

「主メシア」という称号は、使徒ぺトロがエルサレムで、聖霊降臨のペンテコステの日に、説教した中で用いている復活したイエスに対する称号です。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、またキリスト(メシア)となさったのです」と言っています。これによるとイエスは「復活して生けるキリスト」となられた方であり、従って、誕生における「主メシア(キリスト)」も、将来復活して、すべての者に命を与えて救う使命をもった主として生まれたということです。

 

 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と天使たちは歌い、羊飼いたちに平和を告げました。この歌は、イエスがエルサレムに近づいた際に、弟子たちが自分の見た奇跡のことで喜び、神を賛美し始めた歌に反響しています。「主の名によって来られ方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」(ルカ19・38)と歌っています。「天には平和」とあるように、この平和は、神と人との和解による神からの平和です。罪から解放され、神の子とされた人間は、人間相互の平和を実現する幸いな人とされるのです(マタイ5・9)。

 

 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださった現実に起きたことを見ようではないか」と話し合い、羊飼いたちは、急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。羊飼いたちは、野原で天使の告知を聞き、天の大軍の賛美を耳にしました。彼らは今それを自分の目で確かめました。羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせました。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思いましたが、信じようとはしませんでした。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、その意味を思い当てようとしていたのです。あの受胎告知の天使のお告げ以来の事件、羊飼いの突然の訪問の意味についてです。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。彼ら自身のうちに神との平和は回復され、いと高い天にいます神に栄光を帰しています。このようにして彼ら自身の上に救い成就しています。

 

 「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子がしるしである」と、天使が告げたからこそ、羊飼いたちはその乳飲み子が救い主であるとわかったのです。天使がしるしだと言わなければ、それが救い主のしるしであることに誰も気づかないのです。この「しるし」は、神様の救いの恵みが他ならぬこの自分たちに与えられていることを彼らが確信するために与えられているのです。羊飼いたちは、天使が去っていくとすぐに「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と語り合い、ベツレヘムへと急いで行ったのです。そして、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける」というしるしがこうして現実となったのです。羊飼いたちは天使の言葉を信じたからこそ、飼い葉桶の中の赤ちゃんのイエス様に会うことができたのです。 

 

 神がなさる奇跡は、必ずしも超自然的な出来事とは限りません。むしろ、自然に起こることの中に、神の大いなる力が隠されており、現されるのです。神が私たちにその事を示してくださらなければ、誰もそれを知ることは出来ないのです。聖書を読む中で、また礼拝をする中で、神が私たちに働きかけてくださるからこそ、主イエス・キリストを真の神の独り子、真の救い主と認めることができるのです。

 

神はその独り子を最も貧しい、最も卑しい者として生まれさせました。この乳飲み子のうちに、神様の救いが隠されているのです。救い主である方は、乳飲み子のすがたで生まれたことによって、私たちと同じまことに一人の人間となられたのです。そして、罪のない一人の人となられたことによって、私たちの罪をご自分の身におわれて、私たちの代わりに十字架にかかられ、私たちの代わりに裁かれました。死んで陰府(よみ)にまで下ったイエスは、復活し、昇天し、父なる神と共に、世を支配する方となられました。そのことによって、はじめて私たちの罪があがなわれ、神の子され、永遠の命が与えられ、救われるのです。

 

  ルカによる福音書は、イエスの誕生をローマ皇帝アウグストゥスの治世の時代として記しています。この政治の枠組みに入れた理由は、イエスがすべての人(世界)のために生れたということを明らかにするためと思われます。当時、この皇帝は「全世界の救い主」と称され、人々から「アウグストゥスの平和」とも言われていたので、イエスこそが真の平和の救い主であることを言い表そうとしているのです。皇帝として彼は、紀元前27年~紀元後14年の間、在位しました。

 当時の世界最大の強者である皇帝は、全領土の住民に住民登録の勅令を出しましたが、それは知らずに神の救いの計画に奉仕しているのです。ナザレにいたヨセフといいなずけのマリアが、ダビデ王の出身地ベツレヘムに行くことになったからです。ベツレヘムはメシアが生まれると預言されていたダビデの故里です。彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは出産の日をむかえて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったので、牛やろばを飼う家畜小屋を宿としたのです。

 ベツレヘムの町の近郊には「羊飼いの野」があります。羊飼いたちが野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていました。すると突然、主の天使が彼らに近づき、主の栄光が周りを照らしたので彼らは非常の恐れました。救い主誕生の知らせは、宮殿の広間ではなく、野原にいる、貧しく身分の低い者に対して、一番先に届けられたのです。「貧しい人に良い知らせを伝える」(イザヤ61・1)の預言が成就したのです。

 天使は、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と言いました。「この方こそ、主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるあろう。これがあなたがたへのしるしである」と天使は告げました。

 すると、突然、この天使に天の大群が加わり、神を賛美して言いました。「いと高きところには栄光神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美しました。平和を帝国内に確立したとされるアウグストゥス皇帝らが当時「救い主」と呼ばれていたため、イエスこそ真の救い主として対比させています。イエスは「御心に適う人に」平和をもたらす者であり、「平和の君」(イザヤ9・5)として旧約の預言を成就されることが言われています。「御心に適う人に」とは、制限ではなく、人類すべてを含むものなのです。「地の上に平和が人類すべてにあるように。神の御心に適う者に」という意味です。

「主メシア」という称号は、使徒ぺトロがエルサレムで、聖霊降臨のペンテコステの日に、説教した中で用いている復活したイエスに対する称号です。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、またキリスト(メシア)となさったのです」と言っています。これによるとイエスは「復活して生けるキリスト」となられた方であり、従って、誕生における「主メシア(キリスト)」も、将来復活して、すべての者に命を与えて救う使命をもった主として生まれたということです。

 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と天使たちは歌い、羊飼いたちに平和を告げました。この歌は、イエスがエルサレムに近づいた際に、弟子たちが自分の見た奇跡のことで喜び、神を賛美し始めた歌に反響しています。「主の名によって来られ方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」(ルカ19・38)と歌っています。「天には平和」とあるように、この平和は、神と人との和解による神からの平和です。罪から解放され、神の子とされた人間は、人間相互の平和を実現する幸いな人とされるのです(マタイ5・9)。

 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださった現実に起きたことを見ようではないか」と話し合い、羊飼いたちは、急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。羊飼いたちは、野原で天使の告知を聞き、天の大軍の賛美を耳にしました。彼らは今それを自分の目で確かめました。羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせました。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思いましたが、信じようとはしませんでした。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、その意味を思い当てようとしていたのです。あの受胎告知の天使のお告げ以来の事件、羊飼いの突然の訪問の意味についてです。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。彼ら自身のうちに神との平和は回復され、いと高い天にいます神に栄光を帰しています。このようにして彼ら自身の上に救い成就しています。

 「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子がしるしである」と、天使が告げたからこそ、羊飼いたちはその乳飲み子が救い主であるとわかったのです。天使がしるしだと言わなければ、それが救い主のしるしであることに誰も気づかないのです。この「しるし」は、神様の救いの恵みが他ならぬこの自分たちに与えられていることを彼らが確信するために与えられているのです。羊飼いたちは、天使が去っていくとすぐに「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と語り合い、ベツレヘムへと急いで行ったのです。そして、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける」というしるしがこうして現実となったのです。羊飼いたちは天使の言葉を信じたからこそ、飼い葉桶の中の赤ちゃんのイエス様に会うことができたのです。 

 神がなさる奇跡は、必ずしも超自然的な出来事とは限りません。むしろ、自然に起こることの中に、神の大いなる力が隠されており、現されるのです。神が私たちにその事を示してくださらなければ、誰もそれを知ることは出来ないのです。聖書を読む中で、また礼拝をする中で、神が私たちに働きかけてくださるからこそ、主イエス・キリストを真の神の独り子、真の救い主と認めることができるのです。

神はその独り子を最も貧しい、最も卑しい者として生まれさせました。この乳飲み子のうちに、神様の救いが隠されているのです。救い主である方は、乳飲み子のすがたで生まれたことによって、私たちと同じまことに一人の人間となられたのです。そして、罪のない一人の人となられたことによって、私たちの罪をご自分の身におわれて、私たちの代わりに十字架にかかられ、私たちの代わりに裁かれました。死んで陰府(よみ)にまで下ったイエスは、復活し、昇天し、父なる神と共に、世を支配する方となられました。そのことによって、はじめて私たちの罪があがなわれ、神の子され、永遠の命が与えられ、救われるのです。

 

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