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日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報
年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』
聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)
受難節第2主日 2017年3月12日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 528(あなたの道を)
交読詩編 130(深い淵の底から)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書(新共同訳)マタイによる福音書12章22~32節(p.22)
説 教 「悪と戦うキリスト」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌 377(神はわが砦(とりで))
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 3月19日(日) 午後5時~5時50分
聖書 マタイによる福音書16章13~28節
説教 「受難の予告」
讃美歌(21)300 297 24 交読詩編 86
シェアホーム訪問 ミニ礼拝と聖餐 3月15日(水)午後2時30分~3時10分
本日の聖書 マタイによる福音書4章1~11節
22そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。 23群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。 24しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。 25イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。 26サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。 27わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。 28しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。 29また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 30わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。 31だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。 32人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
本日の説教
主イエスは、ガリラヤ湖周辺の町々村々を巡回して、神の国は近づいたと宣べ 伝え、そのしるしとして、病人をいやし、悪霊を追放し、嵐を静め、死人を生き返らせ、奇蹟を行われました。主イエスが行った奇蹟は、イエスが自然、病、罪、悪霊、死に対して支配する権威を持つ神の子、メシヤ(救い主)であることを示すものでした。
イエスの時代は、重い病気や身体障害は、悪霊の仕業だと考えられていました。イエスのところに、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が連れられて来ました。イエスが癒されると、ものが言え、目が見えるようになりました。群衆は皆、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言って驚嘆しました。「ダビデの子」とは、メシアの称号です。
しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言って、イエスの力の源を悪霊の頭のせいにし、イエスが神から遣わされたメシアであることを暗に否定しました。ファリサイ派の人々は、イエスを殺害しようと陰謀を企ていた人々です。(12:14)
<ベルゼベル>とは、「君主バール」の意で、バールは古代シリアの偶像神の名です。この当時は、<悪霊の頭(頭領)>すなわちサタンを指す名として<ベルゼベル>という言葉が用いられていました。彼らはイエスの力を<悪霊の頭>の力と見做したのです。
イエスはファリサイ派の人々がイエスを落とし込むために考えていることを見抜かれ、反論しました。
「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。」
「どんな国でも内輪で争えば」、その国は立ち行かない。内部抗争に明け暮れる国や家が荒廃し、倒れていったことは、歴史や世間の事実が示していて明らかです。わたし(イエス)がサタンの頭の力で、サタンの手下である<悪霊>を追い出していると言うのであれば、それは内輪争いをすることであり、サタンの支配は崩壊してしまいます。サタンは、内部抗争によって自滅するほで愚かではありません、とイエスは反論しました。
「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。」
わたしが悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うのなら、あなたたちの仲間、ユダヤ教団内部で行われている<悪霊祓い>は何の力で悪霊を追い出しているのか。彼らも悪霊で追い出していることになるのではないか。もしそうなら、彼らは怒ってあなたたちの罪を裁くことになろう。彼らの悪霊追放を、神の側に立って働いているとみなすなら、イエスの悪霊追放も同じように神の側に立って働いているを認めるべきではないか、と反論しました。
当時のユダヤ教では、祈祷師や霊能者が悪霊を追い出すことをしばしば行っていました。使徒言行録19章11節以下にもユダヤ人の魔術師や祈祷師がいたことが記されています。
「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」
わたしが「神の霊」によって悪霊を追い出しているのだから、神の国、神の支配は、あなたたちのところに来ているのだ、とイエスは重大な宣言をされました。「神の支配」は、やがて来る終末的な出来事ですが、しかし、聖霊の働きによって、すでに始まっているのだ、と言われたのです。「神の国」が「あなたたちのところに」、今イエスが直接話を向けておられる批判者たちのところに来ている。聖霊の存在を否定するようなあなたがたには不利な、神の裁きがすでに下っている、という警告でもあります。
ルカによる福音書11章20節では、「神の指で」悪霊を追い出しいるとあります。これはヘブライ的背景を持つ古い表現です(出エジプト記8:15、詩篇8:14)。マタイがこれを「神の霊」に改めたのは、18節でイエスの権能の根源を「わたしの(神の)霊を授ける」という言葉によっているからです。
「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」
イエスは、ご自身とともに「神の支配」が到来していることを、イザヤ書49章24~25のたとえを用いて語ります。
「勇士からとりこをとり返せるであろうか。暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。主はこう言われる。捕らわれ人が勇士から取り返され、とりこが暴君から救い出される。わたしが、あなたと争う者と争い、わたしが、あなたの子らを救う。」
「強い人」とはサタンのことです。サタンは所有物である悪霊にとりつかれた人々を、奴隷(捕虜)としてそのままにしておこうとしても、サタンよりももっと強う者(イエス)の前には、サタンは無力です。イエスはサタンの捕虜をすべて奪い取ってしまう。サタンに対するイエスの勝利こそ、彼が、神の側なのか、サタンの側なのか、どちら側なのかを、十分に示す証拠である、と語っているのです。
「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」
この戦いにおいて、どちらつかずいることはありえない。今神の指で悪霊を追い出しておられるイエスの側につくか、その働きを悪霊の頭によるものとして、イエスに敵対する側につくのか、どちらの側につくのかと決断を迫ります。今神から遣わされて世に来られたイエスの呼びかけに呼応して、イエスの陣営に集合しない者は、終末に、イエスがその群れを集められる時に、この集めようとされる働きに敵対するものであり、羊である民を散らしている者とされる、と警告しています。
「だから、 言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
「だから、言っておく」とは、「このことのゆえに」といことであり、新しい重要なことを話す導入のことばです。イエスは、人が犯すどんな罪や冒涜でも赦されと語りました。しかし、聖霊に対する冒涜は赦されない、と語りました。「人の子に言い逆らう者」でも赦される、と語りました。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世においても、後の世でも、決して赦されない、繰り返されました。
ここで言われている「聖霊に言い逆らう」とは、イエスの働きを汚れた霊に帰すことです。
「人の子に言い逆らう者」には、ギリシャ語原文では、「言葉(λογονロゴン)」という語がついていますが、「聖霊に言い逆らう者」にはついていません。32節を直訳すると次のようになります。
「また、誰であれもし人の子に反対して言を語る者は、許されるでしょう。しかし、誰であれ、なんであれ聖霊に反対して語る者は許されることはありません。」となります。
EKKマタイ注解では、
「人の子に反対して言葉を口にする者は、その言葉を許されるであろう。しかし、聖霊に反対して語る者は、許されないであろう。」とあります。(EKK新約聖書注解Ⅰ/2マタイによる福音書p.329-330)
イエスに対する言葉による冒涜と、聖霊そのものに対する冒涜の違いが語られています。
イエスが最高法院で死刑の判決を受けたとき、ペトロは大祭司の屋敷の中庭で、呪いの言葉さえ口にしながら「そんな人は知らない」と誓って、イエスの弟子であることを打ち消しました。(26:74)ペトロがイエスを否んだことは、「人の子に逆らうことば」を語ったものであり、ファリサイ派の人々がイエスの活動を悪霊に帰したことは、聖霊そのものを冒涜したことになります。
当時、ユダヤ教の悪魔祓いは、呪文を唱えたり、物質材料を用いたり、(指輪や植物の根、一鉢の水等)を用いる魔術的な癒しでした。主イエスの場合は、神の霊によってなされる特別なものでした。イエスの癒しは、単なる肉体の治療をこえて、かれの全人格がいまわしい運命の力から自由にされ、生気になり、むしろ生まれかわったという経験にほかなりませんでした。この事実が人々を驚かし、この人がメシアではないかという噂をひきおこしたのです。
サタンは確かに「強いもの」ですが、今やその強いものを縛りあげる方、神に選ばれ、神の霊を与えられたメシア、救い主が世に来られたのです。
「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」
私たちは、主の祈りで、「御国を来らせたまえ」と祈ります。終末のときに実現する「御国」を求めるだけではなく、今、わたしたちのところで実現している「神の国」、「神の支配」を求めて祈る事も必要です。罪と死に打ち勝ち、復活され、天上におられ、父なる神とともに世を支配されておられる、神の御子イエス・キリストの「神の霊」による救いの働きを日々に受けていることを自覚し、悪霊に打ち勝つ勝利を確信して日々の生活を営んでまいりましょう。
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